「退屈...」長門が夏悔いた*1/終わる「エンドレスエイト」にひと言++

ネット上の感想で「エンドレスエイト」について「こんなに毎週次回を楽しみにしたのは久しぶり」と書いているひとを見かけたけど、僕も、今回のエンドレスエイトを見ていて、子どもの頃「未来少年コナン」を毎週たのしみにしていた感覚をふと思い出したりした。

これって、つまり、アニメ放映って、ライブなんだな、ということ。放映スケジュールにあわせてスタッフが手を動かしている制作現場と、放映の瞬間のタイミングに居合わせるってところにあるライブ感が、今回のループで話が前に進まないことによって、逆に、前面に浮かび上がってきた気がしているのです。って『涼宮ハルヒの憂鬱』のアニメシリーズの話をしてるんですが。

地方UHF局でしか放映しない、という条件を逆手に取って成功したのが第一期だったとしたら、今回のループは、アナログ地上波の地方局という放送の枠組みに対する、最後のオマージュにもなるのかなあなんてことを思った。
デジタル化が進んで新作アニメもネットで視聴するのがあたりまえという時代になっても、リリースの瞬間のライブ性っていうのはどこかに残るかもしれない。でも、地上波の放映っていうメディアの特性にはそれ固有のライブ感があるような気もするのだよね。私はケータイのワンセグに録画してみてたけど。

さて、録画失敗したので、ちょっと遅れて8回目見ました。原作通りの結末でよかったですね。そこは期待通り。「私も行くからね」の部分のハルヒの演出は、解釈として面白い。これはアリですね。ハルヒキョンの共犯関係がいじらしく描かれていたと思う。
選択の瞬間の象徴的な描写も、ちょっと大げさすぎる気もするけど、まあ、アニメとしてはこんなものでしょう*1。原作小説のセンスオブワンダーを映像化しようとしたら、こうなるかな、と。
やっぱり、アニメ視聴はどうしても受動的になるので、小説的なイマジネーションの拡がりを映像化するには、こういう手になるのかな、と思います。ループ演出も含めて、傑作というつもりはないけど、まあまあ、良かったんじゃないの、と私は思っています。

エイトだから8っていうのはあまり面白くも無いとして*2、8回繰り返すことに意味があるとすれば、このエピソードでは、繰り返すこと自体、繰り返す回数自体には特に意味が無い、ということが8回も繰り返したこと自体によってはっきり示されていた、というところでしょうか。リセットだから、繰り返すごとに何かが前進するわけではない。それが繰り返しにおいてはっきり見えたからこそ、消えてしまったそれまでの繰り返しは無意味ではなかったかもしれない、というエンディングが逆に生きることになります*3

制作サイドからすれば、京アニでも1期に加わっていない新スタッフもいるのだろうし、他のアニメ作品に携わった癖みたいなものもあるだろうし、ほんとの2期の開始に向けて、スタッフ総動員でハルヒ世界をループすることで、足並みをそろえるみたいな効果も期待していたのかもしれない。

来る長編エピソードへの アプローチランがこれにて終わり*4

ってスタッフのコメント*5もあったそうだし。もちろん、それをもって擁護の論拠にしちゃいけないってのもわかる話。でも、与えられた機会の中で、どういう選択をするのがベストかってことを、制作現場の回し方も含めて考えるのがプロなわけでしょう。

制作進行の都合でそれまでのエピソードで使った素材を使いまわす「総集編」というのがさしはさまれるのが慣行として視聴者にも許容されてるけど、「エンドレスエイト」はそれに近い時間稼ぎ的な側面も多分にあった気がしますね。

ともかく、放映スケジュールがきまっている枠の中でアニメを制作していくってことは、複数のスタッフの組み合わせとかも含めて、様々な偶然的要素の取捨選択によって成り立っているわけで、今回8回のエンドレスエイトが放映されたことも、様々な利害も含めながらの、偶然の結果と言えるのでしょう。

やってる側も、見ている側も、真摯に作っている人もいて、真摯に怒っている視聴者もいて、それぞれに事情はいろいろあろうけど、そのコミュニケーションがさまざまなメディアによって起きている状況のライブ感が、とても面白かった、というのが「エンドレスエイト」についての私の感想ですね。

作品が常に偶然の結果であることを受け入れるのを忘れないこと、そして、選ばれた偶然がまるで必然のように見えるというのが作品であるということ。
そんな風に言えば、「エンドレスエイト」というエピソードのテーマがそのまま具現化されているようですけど、観客参加型の一種のライブパフォーマンスには成りえていたと思います。

たまたまこんな希有な馬鹿馬鹿しいことが起きてしまったことを寿ぎたいという気持ちです。

なんて、わかった風なことを書くと、当然、反発する方もいるのはわかる。
たとえば、次のブログエントリーが、まじめにアニメを見ている感じがほほえましいなとおもって好感を持ったのだけど、友達の批判的文言を律儀に書きとめながら、自分の視聴経験を真摯に反省しているの。こういうの、批評の第一歩だよなあ。

友人Yの話
Yのイライラっぷりに圧倒された。

・気どってる奴が多すぎる。偉そうな評論家気どりの奴が。原作小説のエンドレスエイトには意味があったが、この8回のエンドレスエイトには全くの皆無だ。途中までは、何らかの狙いがあると思っていたんだ。でも、終わってみてそんなのは一切なかった。ただ繰り返しただけだ。それなのに、変な分析記事を書いて権威付けをしてる奴らが多すぎる。つまらなかったら、つまらないって、なんで言えないんだ。

・直観的に面白いと思ったんだろ(僕に向かって)。それならいいんだよ。「面白い」と自分の感性で率直に思ったら、それでいいんだ。問題なのは、京アニを擁護すると言ってる連中だ。この実験性を評価しないといけない、なんていうのをネットで見た時、虫唾が走った。なんだよ、実験性って。くだらねぇ。
涼宮ハルヒの憂鬱「エンドレスエイト」が終わって思ったこと - あしもとに水色宇宙

批評とかに触れて、見方が変わるってこともあるのでね。そういうときには、素直な直観というもの自体が変わってしまうわけですよ。まあ、たしかに、批評によって面白いフリをする癖がつくってこともあるから、微妙な話だろうけどね。。。。


さらに、前回に引き続き賛否両論など。

今になって思えば、4話をすぎてから疲労感が溜まり始め、ループに対する手法、演出へのマンネリを感じ始めていたかもしれない。細かな心情変化などは面白かったんですが、同時にマイナスの考えも浮かび、全肯定/否定という白黒ではなく、部分肯定/否定という灰色の目で見ていた。

しかし、8話における8月30日の喫茶店、鍵を開くシーンは6話分の“引き延ばし”が功を奏したんじゃないか。既視感に襲われ、過去シークエンスの衣装を着た大勢のハルヒが残像として映るのも、実際にその衣装を着たハルヒを見せているから通用するものだし
http://d.hatena.ne.jp/tatsu2/20090808/1249712085

エンドレスエイトがようやく終わったわけですが、それで感動している人がいるというのに驚きました。

精神的圧迫を与えておいて解放する事で相手を術中に嵌めるのは、ある種常套手段ですからね〜
2009-08-10 - ちょいヲタ日記 >また図書館に_

一回30分で毎回演出家が変わらざるをえないという
テレビアニメというメディアならでは製作構造を、
ループネタという物語構造に上手く合致させるという
かなり高度なメタ構造を形作ってますな。
エンドレスエイトのメタ構造: 螢日記

作中でもハルヒは神に例えられてましたが、その俯瞰するはずの
神の眼が今回の事件については認識していない、という。
作品外でも作品内でも「神の意志」は存在してないんです。
つまり作中の神であるハルヒも、スタッフの神である超監督ハルヒ
気付いていないからこそ「エンドレスエイト」はループするという構造。
一回作品の外に出たメタ視線が回りまわって作中に戻るという。
このアニメってこういう部分の徹底振りが実に面白いですよね。
エンドレスエイト補足: 螢日記


個人的には、批評家の福嶋亮大さんがエンドレスエイトに注目されてるのが面白かった。

むろん「キャラクターの時間性」と言ったって、ハルヒ長門も所詮は偽りの記号にすぎない。どのみちすべては安っぽい設定にすぎない。にもかかわらず、京アニは(別に今回に限りませんが、特に今回は)キャラクターが固有の時間性を持っているかのような幻想を生み出している。僕は、これこそが批評的な所作だと思います。
http://blog.goo.ne.jp/f-ryota/e/4f8ac0e16510d7dfb7d15b17166ad768

エンドレスエイトをめぐるこの間のネットの反応というのは、やれ角川と京アニは謝罪しろだの、やれ発案者を更迭しろだの、いくらなんでも幼児的すぎるものが多くて、さすがにどうかと思いました。もちろん、アニメをはじめサブカルチャーというのは、ファンとの距離がきわめて近いところに特色があって、そこから表現的に面白いものが出てきたという歴史もある。しかし、常識的に考えれば「作品をつくる側には固有のロジックがあって、それはときに消費者やファンの欲望と乖離することもある」というのが文化という営みの大原則でしょう。そういう乖離があってはじめて、文化は進化の可能性に開かれるのであって、逆にちょっとした乖離も許せないということになれば、文化は確実に停滞する。その意味で、最近は何かにつけて不寛容な反応が多すぎると感じます。
http://blog.goo.ne.jp/f-ryota/e/2909a1d684480026db29c02f2704ef5c

関連エントリー
終わらない夏が終わる前に/終わらない「エンドレスエイト」--+++ - 白鳥のめがね
作中現在がずれていく−3年遅れの「笹の葉ラプソディ」雑感+7 - 白鳥のめがね

(追記)谷川流のコメントだった件で補足(8月26日)

*1:そのあたり、基本的に、次のエントリーのご指摘にほぼ同意です。http://d.hatena.ne.jp/tatsu2/20090808/1249712085

*2:∞にひっかけてる話であれこれ考えることもできそうだけど、前回同じような話を既にしたので、自重しとく。

*3:ループ展開することを前提に考えると、4回や5回の繰り返しだと、まだ累積による前進ってイメージが残ってしまっただろうから、8回というのはぎりぎり上限で意味無く繰り返しているということを示す回数として選べる回数だったのかな、と。ループ展開するならそこまでやるべきだという判断は理解できる。1話構成で十分物語れる内容だ、というご意見に対しては、30分枠でスピーディに物語ることで、逆に失われる質が確かにある、というほかないですね。あとは好みの問題でしょうか。
そういえば、原作では「繰り返しに気付いたのは何回目だ?」「8769回目」という問答があったけど、アニメ版ではそこをカットして、7回繰り返すことで示していたわけですね。読むことから得られるインパクトが、アニメだと伝わりづらいのも確か。そこをドラマ的に丹念に描写すると、多分、インパクトを与える効果よりも、ぱっとしないと思う視聴者の方が多かったんじゃないかな、と想像する。
おそらく、キョンの主観モノローグを忠実にトレースする、という基本方針を採用した時点で、エンドレスエイトの演出にふさわしいのはループ演出、という方針がせり出してくるのは無理も無い、とも思う。モノローグなら描ける内面の認識における衝撃って、映像化しにくいものなんだから

*4:今日もやられやく - FC2 BLOG パスワード認証

*5:ニュータイプ』確認したらこれ谷川流のコメントでしたね。谷川氏もアニメ制作進行について説明を受けたりとか、承諾を求められたりとか、ある程度は知っているのでしょうし、ある程度アニメ展開についてもコミットしているのでしょうから、アプローチランという言葉はアニメ制作の部外者としてのコメントとは言い切れない部分もあるかもしれないですが。。。。