リミニ・プロトコル『カール・マルクス:資本論、第一巻』TV録画中継に寄せて+

見ました。録画したのを見直しながら今書いている。
http://www.nhk.or.jp/art/archive/200907/02drama.html

フェスティバル・トーキョーで上演されたリミニ・プロトコルの『ムネモパーク』がやたら評判良かったので気になっていたんですが*1、私は残念ながら見たことが無く、今回の放映で初めてみた。

上演時の情報や感想の類*2
http://homepage1.nifty.com/mneko/play/HA/20090228m.htm
フェスティバル/トーキョー『カール・マルクス:資本論、第一巻』リミニ・プロトコル:演出 @西巣鴨:にしすがも創造舎 2月28日(土) - ワニ狩り連絡帳

リミニ・プロトコルは、ドキュメンタリー的手法とでも言える舞台作品を作っていて、役者じゃなくて、いろんな職業の人が舞台にあがって自分自身のことを語るわけです。それを構成演出することで、アクチュアルな舞台作品として編み上げる。これはだから、世界の何でも戯曲にしてしまうということですね。そして、その人が社会生活を通じて身につけた演技以上の演技術は無くても舞台構成によってドラマを立ち上げることができる、ということです*3

以下、作品の結末に触れながら作品についての感想を書きます。



上演テキストの中心となる『資本論』が客席に配られるっていうドラマ構造がすごく面白いですね。これは、『資本論』をめくる*4歴史を舞台にあげることでもあり、資本論が様々に読まれてきた(いろいろな翻訳や点字版も含めて)というドラマを、観客も共有する、ということです。映像メディアが多様化し「ユビキタス化」している現在、あえて劇場で公演をする意味がどこにあるのか、という課題に正面からとりくんでいるのがリミニ・プロトコルだと思いますが、この公演は「一緒に本を読む」という経験を劇場に持ち込んでいるわけです。『資本論』が読まれる歴史のなかに、観客も参加することになります(まあ、読まなくても良いのですが)。

書誌学的な話をかなり丁寧にしているのも、物としての本の歴史がそれ自体ドラマだからですね。これは、単なる説明ではなく、ドラマとして成り立っていることが重要です。作品内の自己言及的コメントは、書かれた戯曲ではなく、現実に起きたことをもとにした(つまり、現実として記されていることを台本化した)ドラマの上演である、ということを説明しますが、それ自体がドラマとして編まれている。緻密な作業が素晴らしいと思います。

そう考えると、ライブであることの可能性を追求した舞台を劇場中継で見るっていうことも、なにやら逆説的に面白い。途中で、これだったら映像ドキュメンタリー作品を見るのと変わらないかな、とか一瞬思わないでも無かったです*5。でも、舞台で起きたことを映像で見る経験は、やはり、映像ドキュメンタリーとは違いますね。単純に言って、それは、様々な「当事者」が同じ舞台上に居て、互いの話を聞いているという状況に想像力が刺激されるということです。

社会主義に幻滅した世代と、その後にマルクス主義活動家になった日独の若い人が、同じ舞台に居る、というドラマ的構造の面白さは、映像ドキュメンタリーで様々な証言が編集して並べられているのを見るのとは全く違う経験です。ともかく、これだけ多様でユニークな経歴を持った人たちが同じ舞台に立っているということ自体がとてもドラマティックです*6

私は資本論を通読したこともないし、ここでこの上演の細かい内容に踏み込んだ解釈はしませんが、いろいろな読み込みができる作品になっていると思います。プロパガンダや書物の学究的な理解も作品の内に取り込みながら、作品自体は開かれた多義性を持っているのがすばらしい。マルクス主義が嫌いな人が見たら、「だからマルクス主義は崩壊したんだ」と納得できるような舞台であるし、マルクス主義者が見たら、マルクスの可能性を再発見できる作品である、そう言っても良いかもしれません*7。見る人によって違う側面を見せながら、歴史を語ることができている、というのは、つまり、歴史的現実のドラマ的で立体的な構造を凝縮して示しているからだと言えるでしょう*8

盲目の人が点字版の資本論を読み上げたり、レコードをかけたり、映像が引用されるディテールにも興味が尽きませんが、ひとつ面白いのは、賭けとクイズ番組が作品の大きなモチーフになっているところです。この二つの要素は、歴史を演出した『資本論』という「戯曲」へのコメントとして、この舞台作品を戯曲から自立した自律的演出構成として成り立たせる上で大きな役割を果たしているでしょう*9

良く知らないままに勝手なことを単純に言えば『資本論』という「戯曲」は現実の謎を解くという面でクイズ的であり、未来を先取りしようとする点で賭けに近付くわけです。賭けという遊び、クイズという遊びが、演じられている(PLAYされている)、そのこと自体が、歴史に対するコメンタリーとしてとても興味深いと思います。正解を知っていると思い込んでしまうことの滑稽さ、賭けに飲み込まれていくことの滑稽さ、それが喜劇的に扱われていることは、歴史の中に投げ込まれるという条件のひとつの典型化です。その裏側には、取り返しのつかない悲劇的なドラマへの、距離を置いた眼差しがあるわけでしょう。

だから、クロノロジカルに時系列順に進んでいく作品の最後に、それぞれの出演者が未来について語るというシーンがあるのは、見事というしかないです。

ちなみに

今回の放映に先立つ解説で、リミニ・プロトコルの劇場に制限されないいろいろな上演実践が紹介されていて面白かったわけですが、この秋にはフェスティバル/トーキョーでリミニ・プロトコルの『Cargo - Tokyo』の上演が告知されているようです東京発の舞台芸術の祭典『フェスティバル/トーキョー09秋』、生の魅力ふんだんに今秋も開催 - 舞台・演劇ニュース : CINRA.NET これって、トラックの荷台に乗ってトラックによる流通の現場を見て回るっていうやつだ。これは見てみたいですね!

(追記)未来のこと言及し忘れてたので追加。未来を忘れちゃいかん(笑)
(追記2)現実を台本にする、というのがわかりにくいかと思い、ちょっと加筆。(8月10日)。

*1:2007年のベスト3に挙げた人が何人も居る。http://www.wonderlands.jp/lookback/2007/02.html

*2:Mixiの日記なので本文ではリンクしませんけど、次のような記事も。ソーシャル・ネットワーキング サービス [mixi(ミクシィ)]

*3:私見では、「ポストドラマ演劇」という批評的レッテルは、ドラマという言葉を狭く考えすぎていると思います。この上演にも、様々な水準でドラマが掬われていて、ドラマ的構造が作品構成の原理となっているわけですから。単線的単一的な、会話劇的ドラマ構造だけをドラマの典型と考える必要はないでしょう

*4:泉信行さんに敬意を表して濁りの無い「めくる」を採用

*5:大体、上演を映像化するとき、複数の上演で撮影されたものがひとつの流れに編集されることだってある。舞台の映像記録と、舞台作品の映像化というのは、また位相が異なります

*6:いかにして上演が実現されたかをドキュメンタリーフィルムにしたら、『プロジェクトX』ばりに面白いはず

*7:嘘かほんとか知りませんが、イギリスのマルクスの墓を詣でる人のなかで一番多いのは日本の経営者だって話を聞いたことがあります。

*8:あえて弁証法的とは書かずにドラマ的と書きましたが、ヘーゲルマルクス的な弁証法というのは、ドラマ的構造のひとつの典型と言えると思います

*9:労働という要素は、本を読むことも労働である、という仕方で扱われていたんでしょうが、労働という要素の扱いが小さくなるのは、劇場で行われることはPLAYだからでしょう