POTALIVE再考(6)

POTALIVEとはなんだったのか。岸井さんの2006年10月のブログにポタライブの道のりを初めから振り返っている記事がある。抄録しながらリンクして紹介したい。

略:::会社を辞めた直後のエネルギーで,集中して1ヶ月で創ってしまったのが「源」。4月30日に上演することにし、入場料を300円に設定。:::略:::朝、コピー機の前で「本当にお金をとっていいのか」と思いながら「300円」と原稿に手書きしたのを覚えている。案の定300円は高い、という声も寄せられた。ので、木室と岸井は、当面、質の向上を目標にすることにした。せめて、1000円の価値のあるものにはしたいなあ、と。再演と新作を毎月することにし、再演で質を高め、毎月100円ずつ高い料金を設定することにした。:::略
ポタライブ4年間の後書きー1 2003年4月―11月 吉祥寺にて―このころ作られたFINAL演目『斜』

略:::2003年ー2004年の年越しを市川の取材でし、のちに「うみをまつ」の舞台になる弁財天で一心に拝む老女を深夜1時にみた。それまでのポタライブの作品では、神社とか寺社は意図的に避けてきたのだ。わざとらしいと感じていたし、そういうものにリアリティがないから、ポタライブのような活動をしているという気持ちもあった。しかし、市川は宗教と切り離しては、演技をしてくれないときがついた。:::略
ポタライブ4年間の後書きー2 2003年12月―2004年4月 方法の基礎が固まる―このころ作られたFINAL演目『うみをまつ』『泡』

2004年3月には「断」初演。初演時は、評判がもっとも悪いポタライブだったと思う。吉祥寺という地域そのものと対話して作品にしたい、と思ったので、斜や泡と違って、先に町ありきなのだが、それに、劇作能力やダンスがついていかないのだ。
とにかく、無理やりでも、地域に根を下ろす必要を感じた。
:::略:::
2004年の9月ー11月に、吉祥寺6作品連続上演をした。:::略:::集客0の日が2回続いたりしたし、平均動員は2名というお話にならない状況だった。:::略
ポタライブ4年間の後書きー3 2004年4月―2004年10月 地域密着への挑戦―このころ作られたFINAL演目『断』

略:::(2005年)6月には、初めての田口アヤコ作品「青恋」発表。これで、ポタライブは、岸井以外でも作れることが証明され、ジャンル化への一歩を踏み出し、順調に成長していけるように、見えた。が。
ポタライブ4年間の後書きー4 2004年12月―2005年6月 アートとしての―このころ作られたFINAL演目『ふねのはなしはないしょのまつり』『青恋』

略:::2005年11月には、船橋にて新作「ルーチンワーク」発表。ポタライブファイナル後の活動として、当時から検討していた、さまざまなアーティストが読み解いた町のドラマを、お客さんが選んでみることが出来るスタイルを形にする。:::略
ポタライブ4年間の後書きー5 2005年7月―2005年11月 ジャンルを確立させるために―このころ作られたFINAL演目『鯨より大きい』

タイトルに「後書き」とあるのは、これらの記事が書かれた2006年10月に「ポタライブファイナル」という連続公演が終わったばかりだったから。この頃から一般に開かれたポタライブ・ワークショップが始まる。多くの作り手がポタライブ作品を作り始める。