杉原邦生演出『14歳の国』+

26日の昼に見る。公演後、渋谷に流れる。夜はディー・プラッツでダンスを見た。

1時間ほどの公演時間。原作の台詞を刈り込みながらも、前半はほぼ忠実に演じられ、後半は、舞台上のカメラによる演出が少しずつリテラルな上演から逸脱する要素を重ねて行き、逸脱した要素が舞台を閉じる。

宮沢章夫という作家があの事件の次の年に作演出して、戯曲も出版されていて、いまでも時折上演されることがあり、夜中のフジテレビでドラマ化されてもいる、その戯曲を杉原邦生が「演出」した上演。以下、舞台で展開することのすべてを見たままに記述する。各自の責任で読み進めてほしい。

14歳の国

14歳の国


作演出を同じ人物が行うことが当たり前で、「演出」そのものの創造性が問われることが少ない日本の状況において*1、「演出」という作業を、音楽を作ったり、映像を作ったりするように、普通にこなせる演出家が当たり前に出てくるようになったんだな、と思う。

戯曲の上演ではなく、戯曲を素材とした演出作品として自立した上演が達成されている。

前半部分を見ながら、宮沢章夫の原作戯曲はどれだけつまらないものかと思った。異論はあるだろうが、私は、原作がもっている会話の構成法、その様式の限界をむしろ強調するもののように受け取った。
宮沢的「静かな演劇」様式が持っている、ネタの転がし方、エッセイスト風な話題の取り上げ方を会話に立ち上げる仕方の、不自然さを感じた。「現代口語演劇」と呼ばれていたものが、いかに文語的であり、文体、つまり、書くスタイルによって規定されていたのかを露呈させるような演出だったと思う*2
単に戯曲を忠実に上演したのでなく、忠実さによって裏切るような、戯曲の隠された構造的事実を明るみに出すような演出の手つきは冷徹だと思う。

その意味で、かつて青年団に所属し、その後演劇から離れていた役者が、まるで生きた化石みたいに「現代口語演劇」が立ち上がるころの演技スタイルを舞台に再演していたのはとても興味深く意義深かったといえるのではないかと思う。

舞台には3台のモニターが初めから置かれている。正面のセンターから下手にすこし外れた舞台から少し上のあたりに、横長の42型くらい?の薄型テレビ、下手の壁の客席よりに、PCの液晶モニターのような小型のディスプレーが一台。その反対側に、ブラウン管の14型ほどのモニターが一台。すべてのモニターが同じ映像を映していて、前半は舞台の全体を真横から映した静止した画面が続く。

役者がすべて退場して前半が終わった幕間に、演出家が三脚につけたビデオカメラを手に入場。PCの液晶モニターのようなディスプレーの近くの机の脇におき、配線をつなげ、カメラを机の天板が大きく写るように調整する。そこに、ノートを開いておくと、そこに「一週間後」と、ト書きの言葉が書かれている。

後半は、このカメラによる映像が戯曲からの逸脱のキーとなる。
リアリスティックには、これは、教師の一人がノートに記す言葉を説明的に映し出す映像となる。
ノートにあらかじめ書かれたいたずら書きがカメラに示されることもある。それは、舞台に登場している人物をからかうような内容だ。
あるは、机の上にナイフの傷のように彫られた「いたずら書き」がカメラによって強調して示されたりもする。

しかし、その、カメラを使った演出が、戯曲に対する注釈のような言葉を示すように、舞台上の現実に対してメタレベルにおかれることが明白になったところから、注釈的な介入が逸脱していく。それは、「ニコニコ動画」のコメントが画像に突っ込みを入れることで、別の意味合いを生み出すように機能する。
はじめは、まるで、ノートを持っている教師が「思っていること」がノートのいたずら書きを介して示されているかのような場面が続くが、さらに、踏み込んでいく。

たとえば、舞台上の事件の推理のようなことが行われる場面では、名探偵コナンの絵が示されて、考えたり、推理の結果をずばりと言う決めポーズが示されたりする、そして、その絵のような演技をノートを持った教師役の役者が演じてみたりする。

あるいは、言葉遊び的に、戯曲の言葉を別の意味に読み替えて見せるようなイメージがノートに描かれた絵や文字によって示されたりする。

ここで、カメラはリアルタイムに机の上を大写しにしているのであり、カメラの前でノートに字を書いたり、あらかじめ描かれたページを開いて見せたりする図示的パフォーマンスが舞台の上で進行していたことは注意しておくべきだろう。映像の効果は、上演の一部を強調するという仕方で、舞台上の現実を別の階層(レイヤー)に再構成してみせることで、モニター自体が在る舞台に注釈的な視覚効果によるコメントを加えていくわけだ。戯曲を上演する「再現」的な舞台空間の展開に、「演出」的介入を明示してみせる。巧みな構成だと言える。

役者が名探偵コナンの演技をしてみせる所までは、まだ、リアリスティックな舞台の外見は保たれている。3台のモニターは舞台の額縁の外にある。

だが、戯曲の外部からの介入に演技が従った後、この逸脱はさらに加速してゆき、カメラにノートを見せていた役者の演技自体が、戯曲に指示された場面に対して逸脱した、別の水準の注釈的演技を加えるようになる。いや、注釈とか、小難しい言葉を使いすぎた。それこそ、演技自体が、ニコ動のふざけたコメントみたいに、舞台上のほかの役者のまじめな演技を嘲って見せるようなものになるのだ。他の役者は、その逸脱が見えていないように振舞う。その演技によって、戯曲から逸脱した演技は、別のレイヤーに位置づけられる。

いや、思い返せば、冒頭の場面でTシャツからYシャツに着替えていた若い教師役の役者が、後半になってTシャツ姿のままで舞台に出ていた時からすでに、再現的な空間からの逸脱は始まっていたのだ。

クライマックスシーンで、この逸脱していた役者が、生徒のカバンから見つかったナイフで、別の教師を刺す演技をする。高まるエレクトロビートが舞台上を空疎な高揚感で彩る。照明が舞台をショーアップする。刺されて倒れこんだ演技をした役者が、おもむろに立ち上がり、他の役者達も舞台の脇に退く。激しいビートに乗せられて踊り狂うように、刺した役者はやがて舞台に組まれたフレームによじ登る。金の紙吹雪が舞い散る。演出家が、机の脇に据えられたカメラを手に持って、刺した役の役者に向かう。挑発するように手招きすると、それに応じるように、画面いっぱいにいかにも凶悪そうなふてぶてしい表情をしてみせる刺した役の役者。そのモニターを、虚ろに見つめる他の出演者たち。


終演後、拍手がおきなかった。その理由は考えてみる価値がある*3

開演するとき、すべての役者が並んで姿を見せる。後半でTシャツ姿の役者が、同じTシャツを着て中央に立ち、これから『14才の国』が始まる旨をつげ、背景の説明を行った。ここで、演技者たちは一度退場し、そのあと前半が始まる前に日本語ラップのアップテンポのヒップホップ調の曲が大きな音でかけられていた。そこで、舞台は一度枠付けられていたと言える。

後半のラストの部分は、同じように戯曲の再現的な上演を枠付けている。

終演時には、狂騒が静まったあと、フラットな照明が舞台を照らし、開演時と同じように閉幕を告げる挨拶をTシャツ姿の役者が行う。ただし作品タイトルは「26才の国」と言い換えられていた。

さて、この上演作品では、原作となる戯曲を比較的忠実に再現してみせる舞台を、静かな現実からの「逸脱」が枠付けるような構成が行われている。

その仕掛けによって、原作自体の中に書かれた「殺傷事件」が、舞台効果上の「逸脱」の中に回収されてしまうような演出になっている。その意味で、偽のドラマをスペクタクルに置き換えるアンチドラマだと言える。

そして、舞台効果上の静かな現実からの逸脱は、照明や音響が激しく感覚を刺激する舞台装置と、カメラが捕らえた映像を中継してみせるモニターという映像メディアの複合によって演出されている。

この上演作品の解釈は、ここから始まる。

私はある種の高揚感とともに劇場を後にしたが、現実のわからなさを意味ありげに示すだけの原作を、すべて「すでにわかりきったこと」の地平に還元している、この上演作品は、と思った。

そこにはひたすらな退屈と、虚ろな高揚以外の何物も無いのだが、現代の現実のあまりに忠実な反映だけがあるという意味で、それをゼロ度の演劇と呼んで見ても良いだろうと思う。役者の現実に回収してみせた最後の「タイトル捏造」を私はこのように解釈する。

現代演劇史への見事な一注解となっている上演だと思う。

(4月28日加筆 宮沢章夫の演劇史的な評価に関わる注意書きを注2に書き加えた)

◎関連する資料
遊園地再生事業団による初演
http://homepage1.nifty.com/mneko/play/YA/19981010M.htm

演技者でのドラマ化 公式サイト
http://www.fujitv.co.jp/b_hp/engimono/backnumber/030211.html

ドラマ版感想
ウープスデザインブログ
14歳の国 -この間まで深夜に放送されていた「14歳の国」というドラマに- ドラマ | 教えて!goo

戯曲 感想

別劇団の上演の様子
http://www.mmjp.or.jp/ragu/matsui/0716/071619.html

*1:梅本洋一が『視線と劇場』で問題にしてみたりしていた

*2:「静かな演劇」=「現代口語演劇」という理解をしていたけど、そのあたり、平田オリザ宮沢章夫では文脈に違いがあるだろうし、宮沢戯曲を「現代口語演劇」とくくること自体にいろいろ問題があるよな、と後で思ったが、とりあえず本文はこのままにしておく。戯曲自体の問題は、機会があればまた別に考えてみたい。

*3:拍手したそうな人はいたが、できないでいた。ポツドールで終演後拍手が起きなかったことを指摘している人がいたことを思い出した