『アントン、猫、クリ』+

16日に見に行く。
http://kr-14.jp/kr-14web/
フェスティバル全体の初日。作品も初日。
岸井さんの関連企画1997年2月9日の記憶の再生: 21=2009.05.06.−04.16.にちょっとお邪魔してから、公演、トークを見て、近くの居酒屋に流れた。

快快を見たことはなくて(しかし今回の作品は快快の作品ではなくて)、話題だったので気になってはいて、企画がアナウンスされたとき*1から楽しみにしていたのだけど、篠田さんという作家をはじめてみた。

久しぶりに舞台でよいものをみたな、という感想。

女の子が住んでいるアパートにいついている野良猫というか地域猫みたいなもののまわりにゆるいコミュニティみたいなものができていて、そのつながりのなかで生活が続いている感じを、男性ダンサーと女優の2人、そして文字を動かすCGの画像とで描いていく作品。

クライマックスで猫が大変なことになり、猫が大変なことになったあとに残された日常を示唆して終わる。

描写は、場面を再現するリアリスティックな水準から、言葉が解体されて断片的に繰り返されるような抽象的な水準までいくつかの階層(レイヤー)において展開されるパフォーマンスによって進められる。時系列も、全体としては出来事の推移を追って行くが、前後が入り組んだり同じ時点が反復されることがある。

ポストパフォーマンス(アフター)トークの時に篠田さんが言っていたけれど、最近は舞台の要素を分解することに興味が向かっていたということで、今回は言葉を分解再構成することにこだわったそうだ。

映像も、たとえば「人」と言う漢字が歩くように動いてみたり、「電車」という漢字が列をなして電車のように動いたり、「夜」という漢字がいくつも降りて重なって黒く画面を埋め尽くしたり、漢字を重ねて動かすことで描かれる場面の背景を描いていくように使われていた。

そこに、言葉というものの、物質的な面と意味を表す面をユニットとして捉えて、モザイク状に配置することで出来事を描こうとするような作家の手つきが見えてくる。

文字であればCGでいくらでも可塑的に加工できるわけだが、パフォーマーの身体で言葉の解体再構成を行うには苦労したとトークで聞いた。ダンサーと俳優との言葉に向かう違いもあったそうで、それも舞台の質に影響を与えていたのだろう。

女優として複数の女性役を演じ分けた青年団の中村真生さんは、演技の仕事を見事にこなしていて好演だったし、初期型のカワムラアツノリさんも、ダンサーとして飄々と演技をこなしていたのが力の抜けた良い雰囲気だった。

クライマックスシーンでは、役も視点も激しく入れ替わり、せりふを奪い合うようにして、カワムラさんが中村さんをリフトしたり背負ったりするような激しい身体の入れ替わりもありつつ、猫の大事にあわてる人々の感情の高まりや焦りや、世界の更新(ある世界の消滅や生成)に立ち会うような、複数的並行的な猫のまわりのコミュニティに関わるひとの意識の変化、アイデンティティの更新する契機を、多視点的にモザイク的に描いているようだった。

そこで、描かれる出来事は、情景にとどまるものではなく、複数の主体が世界に開かれている仕方、その変容、それ自体である。

そこで、舞台の上で進行される身体的なパフォーマンスが見えている水準と、描かれることで見えてくる猫の周りの人々の存在の仕方、生活の広がりの重なり(諸世界の重なり合いの世界)のそれぞれ、つまり、描く舞台と描かれる世界は、まったく別の水準に平行したものとして、舞台の上に見え、舞台を通じて見えてくる。

だから、これは、どこまでも、リアリティを追求して、どこまでも実直に描写しようとする舞台なのだった。それが、情景を再現するようなリアリズムとは遠ざかりながらも、ある種の超=リアリズムとして成立していることになるのも当然のことだった。

だからこそ、篠田さんの実体験に基づく部分は極めて説得力に富むものである一方、トークで明かされた「創作」された場面はどこまでもうそ臭かったということになったのだろう。

舞台の上の運動と、舞台が指し示す世界はどこまでもかけ離れていて、脳裏に浮かぶ世界のイメージと、舞台の上の運動のどちらに注意を向けたらいいか戸惑いながら、その両端にひっぱられるようにして、どっちつかずな感じて見ていた経験の感触が残っている。

なんとなく僕は、アラン・レネのミュリエルという映画のことを思い出した。
ミュリエル

(4月26日加筆)