メランコリア

フェルメールといえば浅田彰の『ヘルメスの音楽』にフェルメール論があったはずで、それは光の充溢みたいなことを純粋な喜びだみたいな風に語っていたりはしなかったかなとフェルメール展に行ったことを書きながら思い出していた。

ヘルメスの音楽 (ちくま学芸文庫)

ヘルメスの音楽 (ちくま学芸文庫)

フェルメールを見る(付き添って) - 白鳥のめがね
フェルメールを見て、画面が暗いと思って、なんでまた自分は、なにか憂鬱なことを書いていたんだろうか。天気が悪いと気持ちがふさぐとか、そういう単純なことか。あれからちょっと気になっていたのだった。

それでちょっとフェルメールとメランコリーとか検索してみた。宗教画をメランコリーの図像として読み解けるみたいな記述はみつけた。ウィキペディアだけど。

マルタとマリアの家のキリスト

あと、「ワイングラスを持つ娘」についてhttp://homepage2.nifty.com/kenkitagawa/sub-verm.htmlというサイトで

赤いドレスと、男性にワインを(多分、しつこく)勧められて困惑気味に鑑賞者を見る女性の表情が印象的。
後ろの男性は、メランコリアの伝統的姿勢らしい。これをフェルメール自身とする説を読んだことがある。

と言っている人がいた。もう少し丹念に調べればそのあたりの事情がもうすこしわかるものか。

まあ、美術史的・精神史的にメランコリーとフェルメールのかすかなつながりをみつけてあれこれ詮索してみても詮無きことではあるのだろうけど。

フェルメールの宗教画については、こんなことを書いている人がいて、少し気になったのでメモしておく。
ルカによる福音書10章38~42節 | kyupinの日記 気が向けば更新



あと、件のリュート調弦の絵は画面が痛んでいるということらしい。ウィキペディアだけど。
リュートを調弦する女

リュート調弦の絵の印象をときほぐして行ったら憂鬱なことになってしまったのは、多分に個人的な理由も大きいのだろうし、絵画の創造ということを語るのにことさら目から手への画家の身体を考えてしまうことにもそれは通じていたのだろうけど、永遠とか簡単に言ってしまう前に、死ぬってことを単純に悲しいことだと考えない道筋もあるのかもしれないということを漠然と思わないでもない。

メランコリーということについては、単純な心持の問題にすぎないのかもな、と投げやりに思いつつ、ちょっと整理しておこうかなと思って、『土星の徴しの下に』とか尾形仂の『芭蕉・蕪村』の冒頭を読み返してみたりしている。