[雑]『晴れのち曇りときどき読書』を読み飛ばす

 松浦寿輝の『晴れのち曇りときどき読書』を図書館でみかけて、借りてちらちら読んだ。松浦寿輝ってどこか「だらしない人」だという印象があって、そんなことを改めて思った。

晴れのち曇りときどき読書

晴れのち曇りときどき読書

 雑多な書評をまとめただけの本。小説から理論書から、いろいろ面白そうな本を紹介してくれていて、ほどよく読書欲を刺激してくれて、面白い本をいろいろ読んだ気にさせてもくれる。

 たとえば川上弘美の『センセイの鞄』評を読んでいると、僕自身が感じたのと同じことがすっかり簡潔に書かれていると思う。この小説の同じ箇所で書き手が僕と同じ身体的反応をしたという記述を見出す。そう読まされてしまうところは十分警戒に値する、そんなところ。自分の感じ方や身体反応をあからさまに書くその書き方がだらしないと思う。

 最近はじめて東浩紀の『存在論的、郵便的』を読んだ。本が出たころは、「ある程度自分でデリダの文章に触れてから、10年後くらいに読もう」と思っていた。当時、哲学科の院生だったけど、ネット上に哲学の院生なんかが絶賛し賛嘆していたのを読んだおぼえがあり、今回、なるほどね、と思った。

 ある種、初学者的な風呂敷の広げ方をしていて、通覧し根底をうがちたいという若い意志が無頓着にさらけだされていて、それが未熟であるがゆえの限界のなかでテクストの間で足がもつれて終わるみたいに打ち切られていて、でもそれがしっかりと状況に対するまじめな応答になっているところが、その時代の本だという風に感じさせる。小室哲哉が捕まった今日そんなことを改めて思う。

 それで、80年代末からゼロ年代前半頃までの書評をあつめた松浦寿輝の件の本にも『存在論的、郵便的』の書評が当然収録されている。図書館で借りた初版本では158頁に「デルダ」という誤植(というか打ち込みミス?)があって、だらしなさをさらに引き立ててくれているのだけど、「否定神学の徒だ」と自分について語った上で、東浩紀の論述上の戦略を正確に指摘しながら、結局それを裏返しただけで不満を表明しているのも見かけの簡潔さとは裏腹にだらしない挙措だし、「浅田彰は人が悪い」とかなんとか、その道の先輩ぶって楽屋落ちみたいに文章をしめているのもきわめてだらしない。

 松浦寿輝というと、昔僕は、PASという私塾のようなダンス学校で「ダンス批評」というどう考えても自分にとっては荷が重過ぎる講座を調子にのって引き受けていたことがあって、そのとき第一回目の講義で、松浦寿輝のキスか何かをテーマにした思弁的な文章を読むことを課題に出したことがあった。
 まあ、思いつきでそんなことをしてしまうあたりが、講師としての僕の未熟さを露呈していたのだけど、受講生のひとりがあからさまな敵意をテキストと、そんなものを読ませる自分とに向けていたことがあったのを思い出す。それで受講生が半分に減って、最後はほとんど残らないという情けない結果になってしまった。それはつまり、ある種のだらしなさに対する敵意だったのではないかと今にして思う。松浦寿輝の本なんか、教室にもちこむべきではなくて、こっそりトイレで読んでいればよいのだ。

 あの頃、仕事の選び方や、取り組み方にもう少しブレない芯を貫けていれば、その後の展開は多少は違っていたのかもしれないけれど、なんとなく無理にでも全部のオファーを引き受けておけばなんとかなるというようなもたれかかった姿勢だった。

 そういう風なことが、松浦寿輝という名前ともつれあっていて、僕は松浦寿輝はだらしないとかちょっと憤慨してみたくなってしまう。

 と、こんなことを得意になって書いてしまう単なる一読者としての自分は十分にあさはかなわけで、そんな僕が「だらしない」とか他人のことを書いているのは、だらしなさと表裏をなす何かの褒め言葉を書きたくないと思っているからかもしれない。

 そういっただらしなさと表裏の美質がどういうものかについては、著者本人がしっかりあとがきで懇切丁寧に告げてくれているとも言えると思う。そんなのはめんどくさいので読み飛ばしておくけど、つまりそういうことを自慢げに語るのがだらしないんだってば。