『マンガは変わる』伊藤剛著

 『テズカ・イズ・デッド』をやっと昨日読み終えました。議論が錯綜した本で、抽象化とか図式化とかの水準がしっちゃかめっちゃかで、苦労してフロンティアを開拓したんだなって感慨が残るけど後世に読むひとにとっちゃやっかいな本だろうね。すごく短いスパンでしか共感できない時代の変わり目が刻印されている本だろうし。
 で、『テズカ〜』の方を読むのに途中で飽きて、同時に図書館で借りてきた『マンガは変わる』の方を読んだら、論旨の鋭さとか、精読の見事さとか、作品との絶妙な距離のとり方とか、リサーチの徹底具合とか、とても面白くて。こっちは雑多な小文を収録した論文集みたいな体裁の本なわけだけど。

マンガは変わる―“マンガ語り”から“マンガ論”へ

マンガは変わる―“マンガ語り”から“マンガ論”へ

 『テズカ〜』では、コマ構成・コマ展開っといったコマ技術論の歴史を再構築し、映画的技法との比較をコマの不確定性という概念を提示して整理したうえで、手塚神話の相対化と歴史の書き換えを行うという、コマ系の議論(1)と、
 キャラとキャラクターの概念的区別を行い、『地底国の怪人』での、ウサギキャラのドラマを読み解きながら、キャラクターに先立つキャラの次元を抑圧することで戦後ストーリーマンガが可能になった、とオルタナティブな戦後マンガ史を描いてみせる、というキャラ系の議論(2)とが
 手塚治虫を語ることがマンガ史を語ることになってしまうようなマンガ論の閉塞を打開する視座を切り開くために、「手塚史観」とでも言えるようなマンガ論者の信仰を解体する、マンガ言説批評(3)の議論
 に組み合わされている。それが、新たな体系的マンガ批評原論として構想されている(4)

 まあでも、この4っつは別に論じることもできるもので、そこをひとつにまとめているところに『テズカ〜』の無理がある。あと、表現史と表現論は区別できると思うけど、表現論を打ち出すために表現史も書き換えなければならなかったのもつらいところだ。そこで、議論の乱暴さを指摘するレビューが出ているのも、仕方のないところがある。

 特に、キャラの問題とコマの問題との関わりについては、あまりに議論が不十分なままになっている。まあ、光学的、映像的なリアリズムを相対化してマンガ固有のリアリティを語るっていうところで、コマの問題とキャラの問題がリンクする、くらいはすぐに言えると思うけど。

で、『マンガは変わる』では、それぞれの論点が、より領域を制限した形で、クリアに論じられているので、論旨がわかりやすかった。今年出たマンガレビュー集はまあマンガ漁りのガイドにすれば良いとして、『マンガは変わる』は『テヅカ〜』と相補的な良い本だし『テヅカ〜』だけ読んでいまいちと思った人もしっかり読んだ方が良いと思った。

高野文子の『黄色い本』批評とか、黒田硫黄の『セクシーボイス〜』評とか、模範的な批評だといえると思うし、アニメ絵とテクノ耳の話とか、801ちゃんをめぐったジェンダー研究的な観点とか、初出の『ユリイカ』での論文を読んでいた人にとってはとっくにご存知のことだったかもしれないけど、『テヅカ〜』で萌え擁護がメインみたいに読めてしまう部分を補っていて、エヴァとスミスを並べる感性っていうのが伊藤さんのベースにあるっていうのは『テヅカ〜』だと見えないところなので、そこは見逃せないと思った。

『テヅカ〜』の話はいろいろまだ言ってみたいことがあるけどさすがにちょっと前の本なのでしっかり先行した議論をフォローしてからまた触れてみたい。

※今回チェックした記事など
http://d.hatena.ne.jp/hana53/20080805/1217927706
http://www.h2.dion.ne.jp/~hkm_yawa/kansou/TEZUKAisDead.html
http://blogs.yomiuri.co.jp/book/2008/02/post_fbf9.html
http://d.hatena.ne.jp/goito-mineral/20060929/1159477386
http://d.hatena.ne.jp/nuff-kie/20070610/1181453546
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2005/09/post_8459.html