田口アヤコポタライブ作品のひとつの完成

ポタライブの『オキルタメニハネムルシカナイ』の再演が来週ということで、初演の時思ったことを思い出して書いてみます。

potalives R. 西東京編vol.1 追加公演決定!

『オキルタメニハネムルシカナイ』は西武池袋線ひばりヶ丘駅に集合してひばりヶ丘を散歩しながら見ていくという田口アヤコさんの演劇作品です。岸井さんと木室さんが始めたポタライブも、最近ではいろいろな人が作っていますが、田口アヤコさんは岸井さんの一番弟子にあたる人で、2005年からポタライブの活動に参加しています。今回の作品で田口さんのポタライブはひとつの完成に至ったな、と思いました。

ポタライブでは、街に取材して、ルートを決めるところから始まり、ルートを案内する語りと、フィクショナルなパフォーマンスが加えられるという形で作品が仕上げられていくんですが、案内役の人にはとても技術が必要となります。

それは、街なかを歩いていく観客の注意を適確に誘導しながら、現実と虚構の狭間を作らないといけないという課題があるからです。語りによって導かれて、観客の視線が動いていく。そこで舞台のフレームが街の中に生み出されていくわけです。

今回の田口さんの作品では、「寝起きする」という生活の基本ユニットがモチーフとなって女優たちのパフォーマンスが繰り返されて、団地の中心への小さな旅が繰り広げてみせる生活の歴史と響きあっていきます。

田口さんが街の些細なあれこれに注意を向けるように促す語りと、田口さん自身の言葉に紛れ込む小さなフィクション(ドラマティキュルとでもいえる様な!)が、パイ生地を練り上げるみたいに見事に虚実が入り混じる場所を視界の中に広げていきます。

そこで、田口さん自身の女優としての力量が、ささやかに、したたかに、披露されていきます。ポタライブの案内という特殊な技術が確かなものとして身についてきているという印象です。

作品全体にはある種のミニマルミュージックのような感触がある、というよりか、ラヴェルの『ボレロ』みたいに、小さな動機が重ねられることでドラマチックなものが浮かび上がってくるような作品になっています。

街の果てにまで至るところで断ち切られるようなラストがとても印象深かった。虚実の緊張がきわまった果てに観客は何気ない裸の現実へと突き放されるとでもいう風です。

初演のときとはキャストが違うということで次の上演はまた違った様子を見せてくれるかもしれませんが、作品の骨格はとても練り上げられたものなのでそこは崩れないでしょう。

秋山駿さんがひばりヶ丘団地にいまだお住まいであるということを日経新聞の連載コラムで知りました。

舗石の思想 (講談社文芸文庫)

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こんな本もあるのか。読んでみないと。