花山周子第一歌集批評会の件

私が短歌に関心を持ったきっかけは、妻が短歌を作っていたからなんだけど、妻に誘われたので先週末、花山周子歌集『屋上の人屋上の鳥』の批評会に行ってきた。件の歌集をまだちゃんと読めていないのだけど、きちんと読んでみたくなる様に歌人の魅力や位置というものを浮き彫りにする良い批評会だった。前半のパネルディスカッションを聞いて思ったことをいくつか。

花山周子さんは、例えばこんな歌を作る。

ぎっしりと団地にみどり童話にもこんなみどりはなかっただろう

君ん家の間取り聞きたし藍色に川風冷ゆる夏の夕べは

まだ若いけれど第一歌集の『屋上の人屋上の鳥』は歌壇では注目を集めているようだ。

例えば、吉川宏志氏の評がこちら。
http://www3.osk.3web.ne.jp/~seijisya/jihyou/jihyou_070910.html

批評会の前に拾い読みしていて、ひとつ気になったのは、発想のベースは現代口語的だと思われるものであっても、文語調が用いられることが多くて、場合によっては一首の中で口語と文語が無造作に混ざっているのがどういうことなのだろう、と思った。あえて文語を使うほど文語の用法に手馴れているとも思えない歌も多かったので疑問が募った。そんなことが気になって集中して読み通せないところがあった。

その点について、パネリストの斉藤斎藤さんが「引き出しの中に古い切手があって、誰かにすぐ手紙を出したいから、それを使ってしまえ、という感じなんじゃないか」と発言していたのがとても納得できた。

斉藤斎藤さんがそう言ったのは次の歌についての評価だったのだけど

利根川はすぐそこなれど超えしこと十度(じゅったび)に及ばず分厚く流る

この「十度におよばず」というのは、歌語というよりは散文の文語だという指摘もありつつ(島田幸典さん)、この歌はこの表現だからこそ成り立つものだということでパネリストの見解が一致した。

そういわれると、利根川の重く流れる質感とか、すぐそこに見える川を生涯に何度も越えていないという、生活に密着しながら、それを遠くから眺める視点がないと気がつかない事実の水準への希薄な感慨みたいなものは、こういういかめしい文語でこそ過不足なく定着できるものだというような気がしてくる。良い作品だと思った。

花山さんは、お母さんも歌壇で重要視されている歌人ということで、たぶん、古典から近現代のものまで様々な短歌に触れる機会が日常にあるということなんだろうけど、そういう環境から、口語から馴染みの表現を素材にするのと同じみたいにともかく目に付いた言葉をなんでも持ってきて歌にしているみたいなところがあるのかもしれない。

どれも微妙に開いている家中の抽斗を閉めに立ちたり

この歌も口語的なものと文語的なものが妙にまじわったもので、57577にうまくはまっていないのだけど、こうでないと成り立たないし、斉藤さんの「どこに切れ目があるのか」という問いに島田さんが「それは考えずに受け取ればよいもの」というところで「いいうたですね」と妙なところでうなずきあって応答が終わってしまうという風でパネリストの分析を寄せ付けないところがあったのだけど、たしかにこれはなんだかよい歌だと思った。茂吉の腐ったトマト(赤茄子)の歌にも通じるような妙な時間感覚がある。

斉藤斎藤さんが批評会でパネリストを務めているのを何度かみたけど、ある種テーマ批評的に歌集を読み解いていく手つきが鮮やかで、今回は、全ての事物が等価に乱雑にある世界には風が吹き渡っていて、歌のなかの「私=花山周子」は風に吹かれることに興奮したりする。でも、相聞的な歌にあらわれる「君」はいつも、風の無いところに、私の手が及ばない清潔な所に置かれている、という分析が見事に決まっているようだった。

さまざまな事物がまんべんなく切り取られていくような作品の多様さにも注目が集まっていたけれど、そういった点について川野里子さんが「平井弘や村木道彦を、戦後の短歌は瓦礫の風景の中から生まれてきたんだな、と思いながら読み返しているところだったのだけど、花山さんの歌は、戦争とは別の崩壊が見えない形でおきたあとに作られているのではないか。形のない瓦礫をひとつひとつ丁寧に積み重ねるように作られているのではないか」ということをおっしゃっていたのに感銘を受けた。

花山さんの歌には

今生きる人をみるのも億劫で明治の人を知る顔をする
「現代」と名のつくものごとに恐怖して玉川上水沿いに帰りくる

というものもあって、ある種の近代思慕みたいなものもあるのかなあと思うのだけど、断片化して散り散りになりながらそこここに残っている古典や近代の言葉というものが、寸断されながらも続いているさまざまな生活の感触を呼び起こすものとして、古い切手でも民営化後の郵便に使える価値を持つみたいな仕方で、古かろうが新しかろうがひとつのシステムをなしてしまう日本語において口語ベースの歌に取り込まれるという必然がどこかにあったのかなと納得するところがあった。

最近戦後的風景ということに関心を持って江藤淳安岡章太郎の諸著作を読んでいたところなので、そのあたり私には興味深い話だった。

さて、吉川氏が上で引いているあとがきの文章は、歌集に収録している短歌の数が多いことについてのコメントなのだけど、たいていの歌集は多くても400首くらいで、800を超えているのは斉藤茂吉の『赤光』と花山さんの歌集だけだと批評会で島田幸典さんが指摘していた。そういう歌の多さも議論の的となっていたのだけど、時系列順に発表した歌を並べるだけで、極力作家の編集意図を排することで、思わずでくわした世界との出会いの場面をそのままさらけ出すことになっていて、方法ならざる方法みたいに成り立っていたのではないかという話がなされていたのも納得できることだった。

↓今語られる斉藤斎藤さんの生い立ち
http://www.asahi.com/edu/student/tensai/TKY200805120179.html

(現代短歌について蛇足)

穂村弘の著作とかがエッセイ経由で一般の読者の関心を集め、東直子さんもいろいろ健筆をふるっていて、枡野さんの短歌投稿企画が住宅情報誌とコラボレーションしたり、笹公人さんとか黒瀬カランさんとか若手歌人が短歌の投稿欄を担当していたりとか、ラジオでもレギュラー番組化していたりとか、ここ何年か短歌に新たな関心が集まっていたと思う。

それで、短歌ヴァーサスも休刊し、歌葉の新人短歌賞も終わって、一時の短歌の新しい動きみたいなものが一段落したかな、という感じの昨今で、ネット経由とかで短歌に関心を持ち始めてでも短歌を続けようという人は、既存の結社に着地していっている、そんな状況かと思う。

花山さんの歌集も、読みの共同体としての歌壇に向けて出されている印象が強くあるなあ。まあ、それが当たり前だったんでしょうけど。

↓私が短歌に関心を持ち始めた頃はこんな感じだった。
http://d.hatena.ne.jp/yanoz/20040508/p1