法の砂漠で隣人であること ver.2

さて、上の引用はその本の「法の砂漠」という論文から引いたもの。カントの『永遠平和のために』などを主軸にして、カントが行った国際法についての議論を、カントの批判哲学全体の射程に位置付けて論じているのですが、今回読んでみてとても啓発的だった。

ところで、以前私はこんなことを書いていました。

万国の「世界市民」への連帯を表明しつつ、「これからが試練の時だ」と言っておきたいと思います。(2001年10月)

上のようなことを書きながら、多少のやましさを感じていたことを思い出す。
世界市民」への連帯、という言葉は、世界市民と思えるような余裕のある人にしか連帯などという言葉は使えないな、という言い訳を用意した上で書かれた、という事にしておきたい、と思ったりしたこともあったような記憶がある。(2003年)
http://www.enpitu.ne.jp/usr9/bin/day?id=90425&pg=20011017

「世界がひとつの国になれば平和になる」というのはあまりに単純で国家がもたらしかねない災厄を見過ごしてはいないかとうすぼんやり思いながら、そういう素朴な発想から逃れられないようなところがあって、そうした論点について不勉強ぶりをどこか自覚しながら、しかしWebで文章を発表している以上、何か政治的コメントをしておかなければいけないとでもいうような意識がまといついていた時期に書いた文章で、振り返ると恥ずかしいです。

あのころ、すっきりしないままに言いよどんでいたのが何だったのか、鵜飼さんの「法の砂漠」という文章にクリアに示されているようで、いまさら整理がついたような気分です。

それぞれの国家と国民の間で成り立っている法と、国家と国家の間になりたつ国際法との関わりというか、その二つだけでは埋められない裂け目というか、その落差はいかなるものなのかについての簡潔な見取り図が示されていること、世界に法による正義を確立するという課題の限りなさ、そのために何に慎重にならないといけないか、が描かれていること、そして、ある国家の国民でありながら世界市民でもあるということがどういうことであり得るのかをはっきり語った上で、そのための政治的な課題を明確にしているところ。こう書くと乱暴なまとめかもしれないけど、そんなあたりに納得するものがあった。

有限な地球という球体の上に人類が住み着いている以上、人間は「結局は並存して互いに忍耐しあわなければならないが・・・人間はもともとだれひとりとして、地上のある場所にいることについて、他人よりも多くの権利を所有しているわけではない。」というカントの議論を引用しながら、鵜飼さんは「法の砂漠」で、国際法の基礎についてのカントの議論*1にこんな注釈を加えていきます。

各人が占拠する場所は根源的に誰のものでもありうるがゆえに誰のものでもない。このような意味での場所とは(中略)幾何学的空間でも生活世界でもなく、根源的な置換の可能性であり、そのチャンスないし脅威にほかならない。(中略)あらゆる土地所有は国家のそれをも含め、人類全体が公民状態に組織されるまでは暫定的なものにとどまる(p326)

「法の砂漠」というのは、国家の法がおよばないところになりたつべき法についての比喩として語られていて、鵜飼さんの論文は、国際法を根拠に「数百万トンの爆弾」が投下されてしまうことへの批判を踏まえて展開されている。

国際法が根拠とされることで戦争が正当化されてしまうなら、結局世界に正義は成り立たないというニヒリズムを現実として受け止めながら、見方か敵かわからない「外国人」を迎え入れることにこそ、カントの言う世界市民がなりたつ条件があり、そして、そういう受け入れは決して制度化されないものなのだ(置換のチャンス、ないし、脅威!)、ということを鵜飼さんは言っていると思う*2

最近、死刑に関わる議論において、犯罪者と隣に住むことというのが論点になっているのを読みましたが*3、そんなことも気になりながら時折人類の思想の歴史なんかを遠景に、たまたまいまここに暮らしている日々の生活について考えています*4

※一晩寝て、いわゆる国際法と鵜飼さんが主題化している「世界市民法」をごっちゃにして書いていたことに気がついたので書き直しました(6/8)。

*1:鵜飼さんが問題にするのは、国家法(それぞれの国の法)、諸国民法(いわゆる国家間の国際法)とはべつにたてられる「世界市民法」の射程を徹底して明らかにすることです。そこに「歓待の掟」を見ていく。

*2:砂漠を過酷さの比喩としながらそれを可能性にも転化しようとするあたりはきっとユダヤ的思想の背景があるのでしょう

*3:http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20080425/p2

*4:「場所というものの根源的な無限定性・・・普遍的な「歓待」の規定に制限されるべき世界市民法が法の空間の内部に開くのはそれである」(『歓待への招待』p.331)。国家の外=法の砂漠=世界、とすれば、それは国境線の中にもおよぶ、というわけです。国家は世界のただ中にあるわけなので