見る

今日は久しぶりにダンスをみた。公演ではなくて公園での半ば私的な集いで、私は気もそぞろにそれまでにみたあれこれのことをおもいながらながめていた。そういう場所での振舞い方を自分はあんまりみにつけていなくて浮き足立ってしまう。

こどものころからいろいろなものになりたかったけれどたいていなりようがないものだった。10代の終わりには、ただ見るだけの存在、純粋な視覚になりたいとときおりおもったりした。思いもかけずその後過ごすことになった舞台について書くことが生活の大部分を占めるような日々は10代最後の希求に根ざしたものだったのかもしれないとか最近になって思うようになった。

でも、そうした日々は、見るということは身体感覚と切り離せないということをいろいろな仕方で思い知らされる日々だった気がする。

そもそも視覚が身体感覚から分離してきたものだとして、身体感覚の原初の姿は気持ち悪さなんじゃないか、気持ちよさというのはそのおまけみたいなものか、あるいは、気持ち悪いのを気持ちいいと感じた原初の生物がすでに倒錯しはじめていたのではないか、とか。

視覚について書かれたもっとも透徹した文章のひとつは丹生谷貴志ベルクソンのイマージュ論に寄せて書いたドゥルーズ追悼の文章じゃないかとか思って、本棚から気まぐれに抜き出してこのあいだ寝床に放り出していた『現代思想』1996年1月号の表紙を眺めている。
(2008年7月30日 mixiから転載)