分岐とか記号とか可能世界とか批評する主体とか

連休は成城トランスカレッジの「2006年のまとめ」を読みふけっていたら終わってしまった。自宅でできる綿密なリサーチぶりが素敵過ぎます。
http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20070103
それで昨年末、それまでよみそびれていたサポセン日記を始めて読んで腹を抱えたって話は別にしても

アニメ版の『時をかける少女』をめぐる

タイムリープ」とは、パラディグム(Paradigme:範列)/サンタグム(syntagme:連辞)の選択関係を露骨に意識させられる手法だと言える。

http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20060923/p2

という議論が、ストーリーの分岐ということをめぐって自分がチェルフィッチュの手法について考えていたことにつながる論点だったので、ちょっとインスパイアされた。こういう話をするのに、可能世界意味論とかライプニッツとか言わなくても良くて記号論的な枠で語ったほうがスマートだなと妙に納得。

SFのパラレルワールドの発想ってどういう仕方でライプニッツに思想史的文化史的にリンクするものなのか気になるところ。そういう研究ってないものかそのうちぐぐって見ようか。

しかし、これも成城トラカレを見ていて知った「蓮實重彦インタビュー」が
http://www.flowerwild.net/2006/12/2006-12-04_102306.php
年末かなり気になっていて、

に触れることで、批評する主体は、まず、眠っている記号を覚醒させる、つまり潜在的なものを現行化させるという体験をくぐりぬけるのであり、そのことによって自分も変化せざるをえず、主体がいつまでも維持される静態的な記号の解読ではありません。

なんてくだりが鈴木ユキオ作品を見ていてもリフレーンしてたりしたんだけど(こういう引用するとさっきの記号論的な語り口って話ともろぶつかちゃうかな)、『「赤」の誘惑』って新著はちょっと久しぶりに待望という感じ。フィクション論ってチェルフィッチュを語る上でも踏まえておかなければいけないことだよなー。赤の主題論ってなんだそれって気もするが。『虚構世界の存在論』も勉強してみないといけないかしらん。

などと思いつつ、締め切りが一週間きった五反田団の新作に関する原稿はリサーチも執筆も手をつけないままウィークデーに突入。正月の読書を生かして『ドストエフスキー詩学』のメニッペア論を援用するという方針だけ立っているのだがさてどう料理できるのか自分でも出口が見えない。