チェルフィッチュの『エンジョイ』(4)

岡田利規さんが岸田賞取って戯曲も出版された『三月の5日間』でもホームレスが描かれていて、路上で大便していたホームレスをエサをあさる犬と見間違えた自分にショックを感じて嘔吐するというシーンがあった。遠くの戦争とセックスの重ね合わせに言及されることが多いこの作品では、傍系のモチーフだけど、だぶん、この作品の結末部分でホームレスのエピソードがあえて描かれたことは重要なポイントなのだろう。

それで、『エンジョイ』では、マンガ喫茶に入ろうとするホームレスをバイト店員がいかに排除するかというのが中盤の大きなモチーフになっていて、フリーターを続けていたら将来自分もホームレスだという不安がそこに重ねられたりもした。

その点に関して、作品の内容においていろいろ考えてみるべき点はあるだろうと思うのだけど、自分はまったく気がついていなかった論点について拾っておきたい。

まず、「自動日記」がこんなことを書いている。
http://blog.libertysketch.com/?eid=431189

会場を出たところにあるベンチに、劇中では「ジーザス系」と呼ばれていた、浮浪者の人が座っていた。同じことをブログに書いていた人が他にもいたけど、毎日いるのかもしれない。ここのベンチはとりあえず普通に座れるし。

引用文中、リンクされているオーマイニュースの記事は「排除アート」を写真つきで紹介するもの。
http://www.ohmynews.co.jp/HotIssue.aspx?news_id=000000001539

都築響一氏によれば、パブリックアートの分野にも、ホームレス排除の仕掛けを見つけることができるという。(中略)新宿駅西口から都庁方面に向かう地下道には、カラフルなオブジェがずらっと並んでいる。斜めにカットされ、しかも交互に設置されているので、座ることも、寝ることもできない。


NBさんのhttp://d.hatena.ne.jp/NakanishiB/20061222/1166771109のエントリーからリンクされていたので読みましたが、「机上、枝条、そのほか」が、オブジェの画像に注意を喚起していた。
http://d.hatena.ne.jp/nogoo/20061210/p2
id:nogooさんの踏み込んだ議論はなかなか興味深いです*1

オブジェの画像が劇中で流されていたことに私は特に注意していなかったのでまったくうかつでした。

NBさんも上記エントリーでオブジェの件に関連して宮台真司北田暁大の対談本『限界の思考』から北田氏の発言を引用している。

ああいうオブジェによる排除について、強制とは見えない形で行為の可能性をつぶすことで「自由の剥奪感を剥奪」するものだ、とする北田氏は、それを「環境管理型権力」と呼んでいる。

こういった問題系に自覚的であったからこそ、パンフレットの表紙裏でも件のオブジェの写真が使われていたということでしょうが、では、『エンジョイ』で作品中でこの問題系がどう主題化されていたのか。

問題をあらかじめ共有していた人にとっては主題化しえる、しかし、そうでない人は素通りしてしまう背景としておかれていたということになるだろうか。

まさしく、それは、都市の景観そのままに。

批判性がなければ作品の要素として切り取ってくることがないオブジェだったのでしょうが、作品構成において、批判が明示化されることはなく、背景に置かれる。

すでに何度も参照したNBさんは、この点でステージの構造について興味深い解釈をしています。

注目すべきは穴という舞台内の舞台が設定されていることです。(中略)それは同時にそこに働く力の存在を示します。実はこの穴、はっきり言うと、新宿西口にあるあの奇妙なオブジェのネガなのです、このオブジェがホームレスを排除するために作られたのは有名でしょう。ですからこの穴は私たちの(中略)社会なのです、そしてこの装置はそのように上演内で機能します。


凸のオブジェの傾斜と凹の舞台の傾斜が照応しあうという指摘ですが、うがった解釈というべきか*2。上演のフレームと社会的現実との接続という話にも直結しそうな論点で、慎重に考えておきたい所。

フレームということで、たまたまプロセニアムアーチについての論考を読んだのでリンク。
http://d.hatena.ne.jp/screammachine/20061110
文化史的に事実関係がどうかという点については私もなんとも言えないですが、ひとつの観点として。

*1:チェルフィッチュの方法論の話と、「降りる自由」を直結する議論はちょっと図式的過ぎないかという気もするが、それも含めてnogooさんの論旨についてはあらためて考えてみたいと思う

*2:多少短絡的という感じもしなくもないですがありえる解釈で、問題はそういう解釈で作品享受がいかに豊かになるかどうかでしょう