根津神社で結婚式
今日は根津神社で結婚式をした。
神式のしきたりというのは、それなりに日ごろの生活になじみのあるものではあるのだなあと思ったりしながら、最近の神社は指輪の交換なんかもコースに入れていたりするのだった。
晴れたのは良かったが、記念撮影のときに日差しがまぶしくてこまった。
神社は散歩の犬でいっぱい。
参拝の方々に待ってもらって、本殿の前で撮影。
遊びに来ていた白人女性が喜んで携帯電話のカメラで撮影していたりした。
紋付袴もタオルで補正したり安全ピンで留めたりで、きっと神職の人もアルバイトだったりするかもしれず、伝統とは言っても形だけあわせるものだったりはするのだろうけれども。
根津神社の対応はある程度マニュアル化されてこなれたものではあり、出入りの業者とかあらかじめ指定されていたりもするのだけど、それはそれで、古い商習慣の名残のなかにあるようで、ブライダル産業のパッケージという感じからすこし外れた印象があり、社務所の待合室とか、それなりにおちついて格式はあっても、高級すぎもせず、下手な式場よりもお値段も手ごろだったし、妻が「身の丈にあっていた」と言うのに納得なのだった。
神社と言えば、戦争中のこととかつい連想してしまうわけだけれど、そういうことも含めて引き受けるということなのかなあと思ったりする。
神道の祝詞にいろいろ道徳的内容が含まれていて、もしかしたらキリスト教式の影響とか入っているのかもしれないとか思ったりするし、心からすべて納得というわけではないが、それはそれで尊いものなのだろうなあと思ったりする。
固めの杯とか、ヤクザみたいだよねーと妻と言い合っていたのだけど、これは間違った感想で、ヤクザも神道のしきたりに則っているだけのことなのだとは思うのだけど、神道というものがすでにそういうイメージなのは仕方のないことではあるのだろう。
本番前にわずかのレクチャーを受けただけで、作法はこれでいいのかとか戸惑いながら淡々と式は終わっていたのだけど、終わってみるとなんだか感慨が残る。
結婚と言っても、結婚式だけして別姓で籍は入れないとか、結婚式はしないけど籍は入れるとか、いろいろあるのだろうけど、結婚というのは基本的には国家の管轄でも宗教の問題でもなくて、社会の領域のことなのだろうという風なことを思う。
つまり、当たり前のことだけれど、結局はお互いの関係を他の人に承認してもらうという仕方が結婚ということなのだろう。そこに生活がからんでくるのでお祝いということもあるのだ、ありがたいことだ。
市役所に届けを出しても、係りの人はおめでとうございますと言っていて、それは、国の通達だの事務連絡だので決められる対応に収まる何事かではないのだろうとか思う。
ま、でも、そのへん、いろいろ、社会の規範と法律と、あと宗教だのしきたりだのというものは、いろいろ微妙に絡み合うもので、同性愛の結婚を認めるかどうかみたいなことも単純に法律と国家というところだけで話が終わらないからややこしいのだともいえるわけだけど。
これからお祝い返ししないといけないなあ、もう一仕事あるなあとか思う。