東京境界線紀行「ななつの大罪」

明治安田生命社会貢献プログラム 「エイブルアート・オンステージ」
http://www.ableart.org/AAonstage/ 
参加事業
マイノリマジョリテ・トラベル presents
東京境界線紀行「ななつの大罪」

という企画を見に行ってみた。

http://430.mimajo.net/

マイノリティとマジョリティの境界を考えるというテーマだけだったら見に行かなかっただろうけど、バスツアーと都市の散策と劇場の三幕という構成だったのに注目した。劇場と劇場の外に出る舞台というのは、最近の自分のテーマでもあるので。

小滝橋車庫」で受付を済ませて、「バスの車内でお待ちください」とのことで、バスに乗り込むと、旧知のWさんが。マレーシアからの留学生(中国系の人)でコミュニティ演劇みたいなものを専門にしてる方。久しぶりに話て、結局劇場までWさんと行動をともにすることに。

バス・クルーズは、本物の観光バスのパロディみたいなノリで、でも従軍慰安婦をテーマにしたミュージアムの話とか、政治的な話題をちりばめたガイドをするというもの。

出発前のっけから、電動車椅子の人が「乗りたいんだけど」「予約でいっぱいです(ガイド)」「こっちも客だぞ」「いっぱいって言ってるだろ(別の客)」みたいなやりとりが。

ひやひやしてみているとWさんが「もう芝居はじまってる」と言うので、そうかこれも芝居なのか、こういう企画で車椅子の人が来て事前に案内がないことは無いはずだ、と思い返した。

きっと、障害者だってマナーが悪い客がいる可能性もあるし、それに対して毒づいたりできないとしたらそれもまた差別なんだってメッセージになっているというわけだろう。

実際に乗っているバスの入り口でそういうやりとりが明らかに障害がある車椅子の人との間でなされていると、紛れも無く臨場感があるわけで、自分の素の反応が引き出されてしまった。

バスの車中でも、障害者だとバスが割引になるけど、けが人の場合はそうではないみたいな話が(パフォーマンスなんだけど、一見世間話風に)上演されていたりする。

あとは、「以下に該当する人はボタンを押して降りてください」っていって、「脳性麻痺のひと」「ベジタリアンの人」「ヒンズー教徒のひと」とガイドがいって道半ばで何人か降りていくという展開があったりもした。

ま、差別がなされる現場に立ち会わされることによって、いかなる差別も恣意的で相対的な決定にすぎないとか言うことを考えさせようという趣向なのだろう。

バスクルーズが終点についたときも、同じような質問で客は順番に降りるのだった。「右翼団体の人」「ワーカーホリックの人」「血を見ると興奮する人」などなどなど。「外国籍の人」でWさんは早々に降りていったのだけど、僕は「月に本を5冊以上読む人、活字中毒の人」では(最近そんなに読んでないしなあ)降りられなくて、「一応仕事に就いている人」という質問でピンポンと「降りますボタン」を押して降りた。

そのあとの「探検クルーズ」というのが、ほんとにただの自由行動で、バス・クルーズから劇場での開演まで2時間以上、観客それぞれがそれぞれの判断ですごすというだけなのだった。何か市街に仕掛けがされていて、そこを地図を片手に歩いたりするのかと思った私がうかつだった。

あまりに不親切って言い方もできるただの自由行動、ひとりきりだったらどうして過ごしただろうなあ。私はWさんが高速バスのチケット取るというので、ちょっと案内をして、結局やっぱり連休中は席もないし渋滞するしということでJRの特急のチケットを取ることになり、調べたり列に並んだりしている間に自由行動の時間がおわったのだけど、それはそれで、境界線について考えるという今回の企画の趣旨にはぴったりの経験で、Wさんと歩いたり並んだりしている間に、「成分献血で体に血球が戻されるのは妙な経験だ」とか「血液製剤エイズになった事件があったですね」とか、「大雪でバスに閉じ込められたことがある」とか、「マレーシアに帰るのに一晩飛行機が動かなくて機内で知り合った日本やフィリピンの男性3人とホテルにいったら4人同部屋でといわれて、とんでもないよね」とかという話をしていたりとか、駅前の右翼の街宣を見たりとかしていた。

まあ、ひとりだったら、ただ本屋に行ったりして暇つぶしていただけかもしれないが、バスクルーズと舞台上演の間に過ごした時間というのは普段の都市生活だったはずで、その経験は何らかの仕方で上演作品を照らし出し、上演に照らし出されたりはしたのだろうと思う。

まあでも、この程度の仕掛けと内容でいまどき頭がくらくらするほど認識の根幹をゆるがされる人もあまり居なさそうだし、この手の企画に自ら足を運ぼうとする人ならそれはなおさらだろうとも思わされた。

だから、個別の出来事として、参加している障害者の人個々の存在とか、セクシャルマイノリティらしき人の存在とかを近くに感じることの方にむしろ、私個人にとっても、意義があったような気がする。だとしたら、芸術って枠組みは、程よく距離を置くのに好都合で、安心して他人として隣り合えるわけだった。それ以上のコミットを促すことが必要な場合もあるだろうけれど、それとは別に、程よい距離をもって隣り合えることは、それはそれで有意義だろう。

それで、第三部の公演については、まあ特筆することも無いなあというのが正直なところで、セクシャルマイノリティとか、身体障害者とかが良く経験するだろうあれこれの問題が率直に語られるセリフ劇が一方に主な内容としてあって、それがもっと抽象的なパフォーマンスと混在しているといった感じだった。

今の社会情勢と、舞台の状況を考えれば、こういうものが上演されるのはもっともなことだ、という了解の範囲にすっぽりおさまってしまっていて、挑発性ってものは舞台そのものにはそんなに無かったかなあという気がする。

様式としても、内容としても、今までに無い何かだったという感じがしない。

もちろん、こういう試みがなされること自体に意義があるということもできて、別に目新しい必要は一切無く、繰り返し語られるべき事柄だということは言える。だとしたら、実は、こういう試みを社会の中にもっと量的に拡大していく方向に政策的なコミットをすることが課題になっているのが現状か、とか思わないでもなかったが、そのあたり、芸術というと、少数事例でも成果として十分と評価されてしまうのは社会的テーマをあつかうという趣旨から言うと逆に落とし穴かなという気がしないでもない。

舞台の待合所でタバコがおおっぴらに吸えるようになっていて、舞台の上でも障害ある人がタバコ吸ってたのは、ある意味、喫煙者を締め出そうとする社会の風潮への抵抗だったのかなあと思わなくも無かった。



そういえば、バスクルーズで「あかね」の話題も出ていたな。行ったことないけど。