乞局の『雄向葵』

乞局と書いて、「こつぼね」と読む。
『雄向葵』と書いて、「おまわり」と読む。

まあ、この二つの固有名詞で検索していただければ舞台のディテールはわかると思うので、描写や説明は省く。

全体の感想としては、ホラー映画的なケレン味あふれる演出をしてしまっている所がなんかあざといなあと思い、もったいないなあと思った。そこまで丁寧に畳み掛けてきた描写が、ちょっとびっくりさせる仕掛けに回収されてしまうのでは、性とか業とかといった語で象徴できるようなテーマを掘り下げるというよりは、いかにも場当たり的な感興みたいなもので流してしまうだけのような気がした。

びっくりさせるっていうのは、その場で終わっちゃうもので、お化け屋敷の恐怖とかって、そんなに跡をひくものでもないと思うのだ。

演技の様式という面では、五反田団とかに顕著な、いまどきのナチュラルな演技といったところで、そこにはそれなりの達成があったと思うし、演劇のある種のスタンダードが形成されつつあるのだなあと思ったりもする。

嘔吐の場面があって、そこの演出というか、演技と、その見せ方含めて、とても巧みだったと思う。そういう巧みさが、でも、架空の世界の話とはいえ、ひとつのリアリティを持った場所と時間の連続の中に展開するドラマとしては、展開にどこか無理のある筋の展開において、説得力を失っていたとも思うのだった。

というわけで、部分部分の作りこまれた場面の見事さを堪能しながら、全体としては、その積み上げが一気に結晶するようなレベルには達していないなあと残念に思う、といった感想を抱いて帰途に着いた。

まあでも、そういう不満もおかど違いなのかもしれず、あんまり近代文学的にテーマとか考えてしまうのが間違いなので、スペクタクルに収斂することで、緻密な人間関係の描写なり、情念の交錯とかなりが、作り物めいたビジュアルのうすっぺらな恐怖の中に還元されて無化されてしまうところにむしろ、乞局の作風においてはじめてみえてくるうそ寒い光景の意義を認めるべきなのかもしれないが。

というわけで、2005年分の舞台鑑賞メモは以上でやっとこさ一応締めくくりをつけることができた。

06/2/12記す。