石川雷太 丹羽良徳

知人であるカノコトの戸田さんと、特異な女優として注目している花佐和子さんが出演するということで、石川雷太の『B.B.S. / Bloom Blood System』を見に行ってみた。アウトラウンジの企画。
http://www.h5.dion.ne.jp/~olounge/idokouki/ido12.html

内容としては、さまざまな政治的声明とか犯罪者の声明とかテロリストの声明とかが等価なものとしてわめきたてられるという風なもので、そこに戦場というか現代の戦争にまつわる映像が、スクエアなビートを刻むノイズミュージックのライブパフォーマンスと同時展開するというものだった。

私は、上演として、それ以上なにかコメントする必要を感じなかった。金属版をたたいてアンプで増幅する演奏に参加しながら、女優の花さんはどんどん機械のようになっていきたくなった、と言っていたりしたのが興味深くはあったけれど。

以前から、石川雷太氏が政治的題材を展示に活用する仕方にどうもなにか煮え切らないものを感じてきたこともあり、上演後のトークの際にちょっと質問してみたりした。アウトラウンジという会場の良い所は、まとまった時間議論をすることを前提に企画を立てているところだ。

今もう1ヵ月以上経ってから書いているのであんまり正確には覚えていないのだけれど、アートという制度自体が閉じたものとして温存されていることをどう考えるのかといった質問をしたような気がする。それで回答もはっきりとは覚えていないのだけれど、アートというフィールド自体が保護された生ぬるいところであるというのは当然のことだという返事が返ってきたような気がする。

煮え切らないと思うというのは、今仮に言語化してみるとすれば、石川雷太作品は決して政治的なメッセージの発信を目的にはしていないし、アートという制度の内部に閉じたものとしてあるのであって、政治的内容はあくまで極端な事例の素材としてあつかわれているのだけれど、そういう素材と化す仕方において、極端な事例の極端さが作品の中で月並みなものになってしまうことそのものへの批判というのは石川氏の創作ではあまり遂行されていないなあといったことだった。

そのあたりの私が感じる煮え切らなさというのは、しかし、石川氏の創作の姿勢の根本から由来するものであって、それについて何か言ってどうなるものでもないのだろうという風な納得をした。

そういえば、この日の企画では、丹羽良徳の「みずたまりAをみずたまりBに移しかえる」が先に披露されたのだった。こちらは、地面の水を口で吸い上げて、隣のくぼ地に吐き出して、移し変えるという野外パフォーマンス。パフォーマンスというものは、上演ではなく展示であるのだなあと改めて思う。パフォーマンスが進む路上から見えるビルの壁に、過去にドイツかどこかで行われた同じパフォーマンスのビデオが上映されていた。(2006・1・22)