ニセS高原から 三条会の作品

この日付で、夜見に行った。

たとえば
http://www.wonderlands.jp/index.php?itemid=346
こんな力の入ったレビューがあり。

http://www.clp.natsu.gs/20051001000649.html
ほぼ似たディテールの指摘からほぼ逆の感想を語ったレビューもあり。

http://matsumoto.blog4.fc2.com/blog-entry-101.html
演劇の本質論におよぶこういった議論もある。

それで、作品の詳細について私になにかこれ以上付け加えて論評する余地は残っていないなあと思う。

だが、それ以前に、この上演を見終わった直後、私は、こんな風に熱心に論じたくなるような意欲*1を感じなかったのだった。なんだか、困ったなあ、面白い上演ではあるのに、面白がれない、という感じ。なので、三条会版の上演については、ついに何のメモも取らずに今日まできてしまった。

まあ、こんな風に言うのは、あらかじめ批判されちゃってるようなことかもしれないけれど、この上演をするのに、あの原作は必要だったのだろうか、とか、思ってしまったのだった。そして、こういう「演出の優位」というのも、ヨーロッパでは前世紀にやりつくされたことだったんじゃないかなあ、とか思ってしまったりもしたのだった。なんとなく、こういう作品は、論じつくしてしまえる種類のものではないのかな、と思った。的確なレビューを読みさえすれば、ある程度観劇経験を重ねた人には十分に想像できる質のものではないか、と。

なので、見終わったあと、ある種の狂騒状態に触れた興奮はあっさり消え去って、ある種の徒労感みたいなものだけがのこった・・・・というのが正直な感想だ。そういう感じ方もまた、単なる偏見に由来するものかもしれないが。

多分、いろんな人から三条会版「S高原から」の魅力を理路整然と語られたとして、納得はするだろうが、見終わったあとの徒労感もまた、鑑賞経験として、消えることは無いだろうと思う。なにをいきなり当たり前のことを私は書いているのだろうか。

芸術というのは、工夫とかアイデアには還元されない何かに触れるためにこそあるものだろうと思うのだけれど、それが、工夫とかアイデアしか見えなくなってしまうこともある。今回の場合、三条会の作品については、意匠以上の何かに触れることが、私には逆に難しかったということかもしれない。多分、意匠ではないという見掛けをもった演劇の意匠を意匠として浮かび上がらせ、そうした意匠に慣れきった目には見えないものを舞台に現出させるためにこそ、過剰な意匠という戦略は有効であったりするのだろうが、私自身はそういう戦略的芸術作品のお世話になる必要はないなあと思ったりする。そういう理解も偏見に由来するかもしれないが。

こういった諸点については、慎重に考えておくべきことがいくらでもあるはずなのだけれど。

(11/20記入)

*1:つい意欲、とか言うと、情熱大陸に居る、http://d.hatena.ne.jp/matterhorn/200511とか言われちゃうのだろうか・・・・。