ニセS高原から 五反田団の上演

四劇団が平田オリザの『S高原から』を「原作」に連続上演する企画。
五反田団の上演は、9/20夜の回を見に行く。

この上演に魅力を与えているのは、演出だろうか脚色だろうか。

脚色の面でひとつ面白かったのは、原作には無かった、ゴミの発掘→過去に向かうという主題の導入だ。原作に対して主題的なレベルから応答しつつ、換骨奪胎している。その巧みさは見事だ*1

演出面では、個性豊かな俳優たちが、その異質さ、雑然とした中から、場所が編み出されてくる感じがあった。しかしこれは、脚色の作業と切り分けて考えることができない性格のものかもしれない。

舞台にはたくさんの誇張がある。たとえば、ミカンの缶を積み重ねてみる。おでこを撫で回してみる。セックスと叫んでみる。

その誇張が、現実性を失ってはいない。リアリティの範囲内の突飛さが、幻想的なものを際立たせる。あるいは、現実が常に幻想を孕んでいることを際立たせる。

その一方で、細やかな心理的過程を描き出す演出もある。別れを切り出そうとする女と、それに気がつかない男。別れの真相を告げる女が、相手を抱いてみせること。あるいは、「タッチ」の「ネタバレ」に怒る、怒られる、場面(タッチということではhttp://passage.tea-nifty.com/firedoor/2005/09/s_9c06.htmlの指摘がなるほど。)。

しかしそこには、心理というものを、身体的反射のレベルにまで還元してしまうような、観察可能なものの次元で見ているような、感触がある*2。それが、劇作と演出作業の両面に、どのようにまたがった作業としてあるのか、演劇の専門家にはじっくりと調査検討してほしいところだが。

この、心理的リアリティの説得力と、突飛な場面とは、物質的なレベルで身体を捉える位相において通い合っているのかもしれない。それは、まさしく、身体が物としてあるということそのものが、常に、生死の境目を成しているということなのだろう。

ドラマ的な展開に依存しない持続感がある。・・・・もちろんそれは劇的な構成ではあるのだが。ほとんど、緩急のリズムのようなものなのだけれど、何もおきていない場所に、濃密に立ち込める気配がある。

ラストシーンの、ビーズを取りに出て行くまでの会話の時間に感動してしまった。

五反田団の仕事をもっと見てみたくなって帰った。

(9月、観劇後しばらく後に書き残したメモに、最低限の加筆をして文章の体裁を整えた。11/20)

*1:ここが脚色のポイントである点についてはhttp://matsumoto.blog4.fc2.com/blog-entry-106.htmlでも指摘されている。松本さんよりは積極的にこの上演を評価したい私としては、この脚色の効果についてもっと詳細な分析をおこなっておくべきところかもしれない。

*2:http://passage.tea-nifty.com/firedoor/2005/11/post_ddd7.htmlで報告されている、平田オリザの話に通じることかもしれない。でも、アフォーダンスを前提にしただけで演出として面白くなるはずがないのは言うまでもないこと