ポタライブ 吉祥寺編『源』

劇評サイトのWonderlandに執筆者として加わることになって、実質的な一回目の書き込みはポタライブの第一作に捧げることになった。

http://wonderland.tinyalice.net/cgi/mt/archives/000441.html

同じ日に見に行った北嶋さんも詳細なレビューを書いてくださって、これを読んでいるとあの日歩いたルートがとてもはっきりと思い出されます。

http://wonderland.tinyalice.net/cgi/mt/archives/000442.html

北嶋さんは、私の文章を引用しつつ、次のようにコメントなさっていました。

「多様に移り変わる関係の中に視線が結び付けられ、それが舞台を生み出し、様々に身体や事象が点在する風景そのものが舞台として造形されてゆく」という表現は、あまりに演劇寄りと言われるかもしれません。その土地、その町(街)の記憶を読み直す作業が、必ずしも演劇を要請しているかどうか自明ではないからです。しかし土地の記憶を立ち上げる方法が、土地の多様性と同じように多様であれば、それはどのような呼称であるかを求めてはいないでしょう。

確かに、私の議論にはある種の性急さがあって、なんだか舞台芸術という枠にこだわりすぎている点があったかもしれない。

でも、舞台作品としての性格を強調したかったのは、一面では、ポタライブが「路上観察」会とは違うということをはっきり言っておきたかったからです。多分、ポタライブの「案内」の部分だけを取り出して、パフォーマンス抜きに行ったとしても、かなり面白いツアーになるはずです。
あるいは、もっと散歩ワークショップ的に地域を見直すとか、参加者がワークシートとか持って終わってから意見交換するとか、予習してから歩くとか、いろいろ可能性がある。そういう方向性はまた別のものとしてとっておきたい。

それから、劇場だけが舞台の可能性ではない、という面をはっきり言いたかったということがあります。


いや、しかし、いずれにしても、「追悼」にひきつけて語るというのは、あまりに生硬だったかなあとも思う。全く間違っているとは思わないのだけど、そういう見方をしてしまうことで見えにくくなるポタライブの魅力というものもある

それから、岸井さんの作風の弱さみたいなものも、確かにあると思います。そのあたり、手法が獲得しつつある確かさと両方うまく語ることができたらよいのですが。


(付記)

他の演目ができなくなったという事情で、「源」が10/8,10/9に緊急再演されたそうで、「休むに似たり」の方がさっそくレポートしてました。

http://kawahira.cocolog-nifty.com/fringe/2005/10/post_5e2c.html

あたしの考える「芝居」というのとは少し違う気がします。あたしはもっともっと、具体的な物語がほしい。・・・(中略)・・・あたしがあまり得意でないパフォーマンスやダンスを観る環境としては、むしろ劇場で観るモノよりも、カジュアルで、あたしは楽しく観られました。

とのこと。

「芝居」好きな人の感想としては、よくわかる気もします。条件付きの好意的な評、というわけで、一般的な見方としてはこうなのかな、という感じですね。私の評価は、良い所だけをピックアップしているところもあるので。「批評的に救出」とか言ってしまうと大げさすぎでしょうが。