神村恵+荒木志水

二人それぞれのソロのあと、デュオ作品、というプログラム。9/11昼の回を見る。
会場はタナトス6。
http://www.a-third.com/thanatos6/e_index.html

  『入り込まれた時』神村恵ソロ
  『assent or end or』荒木志水(あらきしず)ソロ

  『ダンス』
    構成=荒木志水
    振付・出演=神村恵・荒木志水
    衣装協力=denebold

神村恵のソロは、はじめ右足、左足を交互に横に一歩ずつ運んでいく動きをずっと繰り返していた。静かなピアノ曲ジーンズにTシャツというのはいつも通りの出で立ち。そのあと、唐突に倒れこむ動きを繰り返す。その唐突さは、本当に棒が弾き飛ばされるようで、意表をつかれる。後半、D.ボウイの「Let's Dance」が弱い音でかかりはじめる。はじめ、ひざをちょっと曲げてかすかに揺れるだけの動きをしているかと思うと、やがて音楽が大きくなるにつれて、激しいダンスになっていく。なんと形容したら良いのか難しいけれど、確かにビートにのった動きではあり、ステップを踏んでいるようでもあるのだけど、音の拍子にあわせて分節されるような動きではない動きをしている。腕や上体を勢いにあずけて投げ出しているようでもあるけど、その投げ出される動きに細かくブレーキがかけられているかのようで、微細な振るえを伴いつつあの、細かい氷と液体がまざった「シェイク」みたいに半流動の状態で様々な軌跡を描いていく。この動きはちょっと見たことないかもしれない感じで、また見てみたい。

荒木志水のソロは、テクノ調の曲に合わせたもので、初めは身体を前に屈めてゆったりと前後に腕をしなうように揺らす動きから始まった。その後、両手両足を床について蹲るような動きをした後・・・・なんだか振りの続きを思い出せないのだけど面白く見たことだけは憶えている。

ダンスについて書くということは、通常だいたい普通は、ダンスの記憶について書くということなんだけど*1、それで、ディテールについての断定が正確に下せるならば、具体的なダンスの描写は説得力をもつしその真理性が判定されうるものにもなるのだろうけれど、さて、荒木志水作品の魅力について語りたいのに想起できない*2

はじめて「ダンスがみたい新人シリーズ」に出たときの印象は今でも鮮明だし、このあいだの畳半畳に出たとき、背中からベビーパウダーを噴出させながら身体をゆらゆらさせていた印象も鮮明に想起できるのだけれど、舞台を思い出そうとすると、荒木志水の爛々と眼を光らせるような顔しか思い出せない*3


それで、二人のデュオは、基本的にユニゾンの振りを続けていくパートが多かった。ユニゾンが続くとは思ってなかったので意表をつかれてしまった。振りの部分部分が時々ずれていく。ずれるというか、別のことをしている。なんだか二人でせっせと場面を運んでいくかのような感じでテンポ良くいろんな振りやシーンが展開していく。ラストのパートでユニゾンを離れて二人で乱舞していたような記憶もあるのだけどなんだかすべてが曖昧なまま思い出せない*4。でも、面白かったのは確かなのだ。

*1:ダンスについて書くことがダンスの生成について書くことであり書くことがダンスになることであったりするような書き方というのは可能であり、成されてきたのかもしれないにしても。

*2:想起できないのは、単に私が寝不足だったとか、前後に個人的にいろいろな出来事があったからだとか、その後見た舞台の印象があるとか、そういう主観的な要因に還元できることなのかもしれないけど、想起をたやすく許さないような構造が作品そのものにあって、ダンスそのものもとらえどころのない質を持っていたということかもしれない。そして、想起を許さないそれは、積極的な何かなのだと思う。

*3:顔の印象だけ思い出すときに、あの時流れていた時間の感触だけは確かにその背後に感じられる風なのだ。そういう仕方でこそ触れられる舞台作品の肯定性というものもあるはずで、それはより深く潜在するような仕方で痕跡の生成として生き続けているのかもしれず、死に続けているのかもしれないけれど、それについて、舞台を目の当たりにするように描写することはできないのだ。

*4:舞台上に身体が移動する、その出来事によって、空間は様々に分節されて、時間も様々に寸断されて、そういう出来事に立ち会う記憶は、様々な分節の集積として、からまった痕跡をこれからの経験へと浸潤しようと待ち構えている。