カノコト「敗れた希望/ステーション」

湾岸戦争以後」シリーズ  敗れた希望/ステーション
[原案・出演] 佐藤信光 戸田裕大
[構成・演出] 戸田裕大

9/3の回を見る。不十分ではあれ、若干の感想と事後的な考察を以下に記しておきたい。

http://d.hatena.ne.jp/yanoz/20050513/p1
で言及したプレ公演の拡充版と言ったところ*1

私は、前回のプレ公演の冒頭を次のように描写していた。

わたし、わたしたち、とくりかえす呟きがはじまる。その声が大きくなっていくと、君、君たち、という言葉がまざりはじめ、それが、わたしたちは君たちを許す。だが、忘れない、というフレーズに結実する。

今回の公演も、このように始まったが、私がみた回では、その声はプレ公演よりも甲高く緊張し、朗々と響くものだった。

様々に公権力からの迫害を受ける被害者たち、あるいは、弾圧される政治運動家たち、あるいは、日本(政府/国民)による加害を問題にする中国人・・・・そのような政治的な問題にまつわる当事者について語る言葉を自ら繰り返し声に出すという試みが戸田さんによるパフォーマンスのほとんど全てを占めている。観客は、そうした問題について、あらためて想起させられ、直面させられる。朗々とした声に、傍観しているだけの自分が責められているような思いをした観客も居たようだ。

戸田さんは公演パンフレットに次のように書いていた*2

私は最近「演劇とは他人の記憶を生きること」といってきました。他人の記憶を生き、他人と接触しようとする。これが私の演劇の実践だとしたら「人間=ステーション」はその関係の形態を上下がある高層ビルやピラミッドではなく、フラットな建築物として比喩にした、私にとって斬新な概念だったのです。

ここで言う「ステーション」は、「上から下へと情報が分け与えられたり、命令が下ったりするわけではない組織」をイメージする重信房子の言葉だという。戸田さんは「人間そのものが「ステーション」になればいい、もっといえば、自分が「ステーション」になりたい」と書いていて、それに該当する事柄は、劇中のほとんどの時間を占めるモノローグの途中で語られもした。

問題は、この「ステーション」というコンセプトに舞台造形がどこまで迫り得たのかどうか、であったと言えるかもしれない。

佐藤信光さんによるパフォーマンスは、途中で客席に背を向けて、女性のもののような黒い下着とワンピースに着替え、扇風機を止め、身体が同一的なものとしてありつづけることへの嫌悪を語るような内容を持ったいささか抽象的なひとつらなりのセリフを一度だけ声に出し、仮設の壁を舞台袖から持ち出して、それを殴ってみせたり、ワンピースの裾をまくってしゃがみこんでみせたり、といったプロセスを淡々と辿るもので、戸田さんによるモノローグが続いている間、それと平行するようにそのプロセスは進む。

その平行関係そのものが「ステーション」の造形としてあったのだろうか。しかし、単なる二つのパフォーマンスの併置に過ぎないようにも見え、佐藤信光さんは、単に演出家の指示にしたがっているだけのようにも見えたのだった。

ノローグが客席へとまっすぐに向けられていたプレ公演にくらべて、佐藤さんがパフォーマンスする空間にむかってモノローグが投げかけられる今回の本公演では、「君」への語りかけが向かう先がどこなのか、逆にはっきりしなかったようにも思う。モノローグの中で繰り返される「(それまでの語りを)去っていく君へのエピローグとして捧げる、これが君のプロローグとなれ」という語りかけが向かう先に、佐藤さんは位置したのか、しないのか。それとも、女性を思わせる衣装であった点で、むしろ語られた被害者(死者たち?)、になりかわるようなものとして、佐藤さんのパフォーマンスは位置付けられていたのだろうか。

簡素な舞台空間は、巧みな照明に照らし出されて、むしろ現代演劇として洗練された美しさを湛えていたと思う。しかしその抽象化された空間は、多義性に開かれているというよりも、あやふやさを払拭しないものであった、と言うべきだったかもしれない。

ともかく、パフォーマーとしての戸田さんの真摯さは、簡潔な空間のなかにくっきり際立っていたと思う。長いモノローグのその声の質をどのように受け取ることができるのか。それは、観客にゆだねられた課題だったのかもしれない。

もう一度タイトルを見てみる。「敗れた希望/ステーション」・・・・このスラッシュは、どのように二つの言葉をつないでいるのか、あるいは隔てているのか。希望=ステーションの敗北、なのか、それとも、敗れた希望を下支えする「ステーション」が希望として結実するように訴えようとしているのか。公演の最後に語られたアブグレイブ収容所をめぐるエピソード(人権団体の者だと言って会いに来た女性もまた米兵だった)は「敗れた希望」を端的に示すものだったようにも思える。いずれにせよ、公演案内でも戸田さん自身「不可能な理想」だと言っていた「ステーション」は、敗北の拒否や克服において与えられるものではないことは確かだろう。

公演冒頭の「わたしたちは君たちを許す。だが、忘れない」という言葉には、最後の希望が託されているようにも思う(この言葉において少なくとも「憎しみの連鎖」は断たれる)。だがそれを、様々な被害者に代わって口にすることは、少なくとも、あまりに楽観的だろう。どのような立場から、許す、と言い得るのだろうか。それが、希望としてであれ。

この舞台では、自分が加害者として振舞ってしまうかもしれないことは確かに(引用において)問題にされてはいたが、加害者自身にどこまでも向き合うということはなかった、と言えるかもしれない。多少なりとも、加害者性であることは抽象的に捉えられていたのではないか。

ここに欠けているのは、裁くこと、裁かれること、償うことをめぐる問題系だと言えると思う。もちろん、結論として、裁きや償いということそのものを退けようとする立場があっても良いのかもしれないけれど、今回の舞台の上でそれらの問題が問題として扱われることは無かったように思う。

試みとしての有意義さを最大限に評価しつつ、カノコトの試みがさらに進められることに期待したいと思う。

追記:後半近く、ポピュラーで懐かしくもあるメロディーを戸田さんがやけっぱちのように歌う場面があったのだけど、その場面をどう捉えたらよいものか、判断がつかないままで、そのため舞台の説明においても言及し忘れていた。

(9/5に書いた)

*1:プレ公演に対する本公演の主な相違点は、・共演者(佐藤信光)が加わったこと・戸田さんが縛り付けられるフレームが金具で固定されたままであったこと・そのフレームが、上手側の演技スペースの端に、客席に側面を見せるかたちで設置されていたこと(客席の位置によっては、身体の真横しか見えない)・照明による演出が加わったこと・扇風機と仮設の壁が装置として使われたこと・脚本の加筆と再構成・録音された音声、音楽などは使われなかった。・・・・といったところ。脚本の加筆箇所には広河隆一パレスチナ 新版』(岩波新書)からの引用もあった。キブツを尋ねてそこでの労働に携わったことはパレスチナ難民の迫害に加担することだったのではないか、と、白旗を掲げる難民の子供を目撃して気がつき、ショックを受けたといったことを著者が語ったくだりである。他に、戦後直後、「進駐軍」のために日本政府が設置した「慰安施設」で過度のセックスワークをせまられた女性たちについての語りなども追加されていた。

*2:劇団サイトhttp://s.freepe.com/std.cgi?id=kanokoto&pn=01 から転載