玉野黄市と幻の軍団

「舞踏ってなあに?」と題した、ダンスがみたい!7国際ダンスコラボレーション企画参加公演を8/18に見た。

栗田勇かだれかの本を読んでいたら、大阪万博のパビリオンを建築中に見学に行く話があって、そこで、大きなスクリーンに土方巽の映像が写されていたって話を読んだという漠然とした記憶があるのだけど、そういう、いまや遠ざかり行く同時代性みたいなものを表現に通低する空間として横断的に考えてみる必要はないだろうか。

土方巽の記録映画みたいなものを見ると、一緒に70年代の町並みが映っていたりもする。多分、あの高度経済成長が一段落したあとに残された風景、日本の土俗的なものが資本や国家の運動のなかで散り散りになって埃の様に舞い上がってあたりを覆っているような風景というのが、今、舞踏とよばれているものがそこから生まれてきた風景なんじゃないかと思う。

それで、その当時、舞台芸術か身体表現かしらないけど、土方巽の身体を中心に渦巻いていた作家的な意志なり集団的な創作なりがなりたった前提として、そういう風景があったということを、忘れてはいけないんじゃないかと、思ったりする。

舞踏が様式として固定してしまうということ、とくに、白塗りとか、似非土俗的意匠とか、ダンスという視点から考えれば動かせるはずの要素が舞台表象に固定されているということ、それが、海外に活動拠点を置いた人々の場合、逆に顕著であって、時間が止まったみたいに昔の舞踏の様式がそのまま保存されているということについて、考える。

なんというか、隠れキリシタンの信仰がそうであったような儀礼の形式だけが自律的に展開するようなことが、起きかかっているような気もする。

それこそ、宇宙とか意識の根源とかってことをしきりにおっしゃる舞踏の人が、型としての日本的意匠から自由でなかったり、「やっぱり刺身包丁は日本の男に持たせたい」みたいなことをおっしゃったりするというのは*1、身体とか肉体という方向から考えると良くわからないことだけれど、70年代の風景を幻として身体の中に飼い続けているということなのだと思えば、わからなくもない。

というわけで、この公演の「アフタートーク」で、舞踏って何?という質問が客席に振られて、鼠派宮下さんが志賀さんのあとに僕を指名したときに、「特に付け加えることは無い」と言ったのだけど、私が舞踏ということで考えるのは上のようなことで、それを面と向かってアーティスト*2に言うというのは、身の程をわきまえない挑発ではないかとおもったし、そういうことをする活力はそのときの私のものではなかったので黙っていたのだった。

数年前にディープラッツに出たとき、玉野黄市さんは、静岡生まれでカリフォルニア在住だから、青空の下に自分はいるんだっておっしゃっていた、舞踏というと北国の暗さみたいにイメージされるけど、自分は向日性の人間なんだって言っていた、そういう楽天性というか享楽的な感じがやっぱり踊りにも出ているような気がしないでもなく、大柄でゆったりとした身体は、どこまでもたおやかであったように思う。いろいろギミックを使っていたのはやっぱり邪魔じゃないかと思う。

玉野弘子さんの「アフタートーク」での語りっぷりは痛快で、トークショーだけでもエンターテインメントとして成り立ちそうだなあと思ったりもするのだけど、どこまでも群舞の一人であり続けようとする人なんだろうか。今までディープラッツで見た限りでは、一場面でさえソロやデュオを踊るのを見たことが無いのだけれど。

白人ダンサーも出ていたのだけど、若衆でのコラボレーションとか桂勘の舞台とかに出てくる白人系ダンサーの方が型としても様になっているように思うほど、朴訥な演技で、顔をしかめてみせたり、足を踏ん張ってみる仕草が、どこか稚拙さを残していて、それでなおかつ純真に異文化の世界に没頭しているような陶酔感を漠然と漂わせている風でもあって、笑いをこらえている人もいた。

いつもそうというわけではなくたまたま今回出た人がそうだっただけかもしれないけれど、舞踏をどんな風に英語でつたえて稽古しているのかを追跡調査するだけでもずいぶんいろいろ学術的に文化とか芸術とかについて考察すべき課題が山積するのだろうなと思う。

(8/30に書く)

*1:この日のアフタートークでの玉野弘子氏の発言

*2:舞台に立つ人という意味で artistじゃなくて artiste