金魚(king-yo) 「ミルク」

ダンスがみたい7参加公演。8/17 19:30の回をみる。

で、今回の金魚のミルクなんだけど、のっけから三人の(男の)ダンサーが舞台上に佇んでいて、薄暗い照明の中お互いの顔を窺いあっているというところから始まる。この冒頭のシーンは、二人のダンサーがゆっくり屈みこんで、舞台の奥を向いて(つまり客席にお尻を突き出して)腰をゆっくりとうねらせる、その様子を立ったままのもう一人が見ている、という風に展開していったのだった。立ったままの一人は、四つんばいの一人を蹴って、蹴られたひとりは床に崩折れる。倒れた一人はまた四つんばいになり、立ったままの一人がもう一人を蹴って、崩れ。そんなことが繰り返される。四つんばいの二人は、右足の足先を小刻みにふるわせている。これは、3ではなくて、2+1の展開なのだった*1

というわけで、2+1だなあと思ってみてしまったのだけど、そこに2+1に還元させるのを拒むなにかが、たとえば2+1の1が男性ダンサーから女性ダンサーに入れ替わる時に一瞬漏れ出ていたりしたのかもしれないけれど、2+1への還元ばかりに逆に執着してしまう私はそれを見逃していたのかもしれない。細かいことに変に集中してしまうのは考え物だったりする。

前半、緩慢に展開して微妙に表情を変えていくなかなか巧みに構築されたノイズミュージックが舞台を満たしていて、薄暗い照明の中で淡々と展開していく2+1のダンスは、なんだか厳粛に進行していくようで、それぞれ明確に文節された身振りはぽつりぽつりと遠くから響きあうようにして空間と時間を金属の響きのように稠密に埋めていき、そのことによって乾いた照明がやわらかくそそがれる空間そのものがどこまでも透き通って、じりじりとした持続のなかに時間の進行も鉱物質の厚みを感じさせるかのようである。まるで「ひとつのメルヘン」のよう。時空間そのものが触覚的なレベルで感じられるかのような舞台が立ち上がってくる経験は久しぶりで、こういう舞台経験はフォーサイスの作品で感じて以来のことだ。

小型の照明器具を二つ、床のそばまで垂らして、それを手に持って二人のダンサーがおなじ斜めの線を舞台に描いてみせる場面など、中盤を引き締めた魅力的な光景で、「肢体の原理」のことや「船と共に」のことをいろいろと思い出しながら見ていた。フォーサイスピナ・バウシュを見ておけば世界の舞台芸術のもっとも良質でもっとも先端的なものはそれで十分すぎるほど享受できていたあの頃。

さて、ノイズミュージックの轟音が厳粛さをかもし出していたはじめのパートは、フランス語のナレーションも入ってくるビートの明快な曲が使われた中盤から様相を変え始める。開演前から舞台の下手側の舞台奥の壁の上方に白い正方形状のものが架かっていて、そこにくすんだ青のような色で猫のような絵が描かれていて、不器用さについて語る単純な文章が書かれ(てい)たりしたのだけど、中盤の場面でそれが消されて、暗転中に下におろされてみると、それが、太い足で無骨な印象もある、白いテーブルだったことがわかる。重たいテーブルをゴトンゴトンばたんばたんと転がされる展開。テーブルに登ったり降りたりする動きを交えた女性ダンサー(安次嶺菜緒さんだろう)による見事に巧妙で魅惑的なソロダンス。

後半はコミカルな展開になる。白いテーブルがお風呂に見立てられたり。踊りましょう、といって嫌がる男とむりやり踊ろうとする男のデュオ(それが、抵抗して動くまいとする男と、むりやり動かそうとする男の力がぶつかり合って、ぎったんばったんめちゃくちゃな人形のダンスみたいに展開して笑いをさそう。コントに仕立てられそうな場面)があったり。ぶらさがっていた照明器具を股に挟んで、尻尾みたいにして、踊ってみたり。

そういうバラエティに富んだばらけた展開が、緊密な前半と絶妙なコントラストを成しているようで、前半の緊張感こそ自分が求めているものかもしれないなあと思いつつ、それがどうやって終わったのかなんだか忘れてしまったのだけど、前半の緊張をすっかりほぐされてしまって、思いつきを並べたようなラストの展開だったけど終わってみるとなんだか完結感をもたらして終わったみたいだった。

金魚としての作品を見るのは二度目で、前回はSTだったのだけど、麻布ディーププラッツくらいの大きさのほうがしっくりくるみたいにも思った。鈴木ユキオさんというのは、いろいろ引き出しの多い作家だと思った。

(8/19に書く)

*1:ソロ・ダンスやデュオ・ダンスにはそれ独特の条件があり、その条件の枠の中で、別々の可能性が開かれている。そして、およそソロとデュオについては、ある程度の可能性がすでに開拓されていて、その可能性のなかでの洗練も進んでいると言えるだろう。ダンサーの数による条件の変化をそのまま伸ばしていくと、群舞による構成がある。既にデュオの段階で、群舞的な構成の発想は可能だ。二人のダンサーが運動の組織において同質なものに近づいたとき、それは最小単位の群舞になる。デュオがデュオとしての特性をもっとも発揮するのは、相補的であれ、対立的であれ、二人のダンサーが異質的なものとして現われる場合だ。さて、この、同質と異質とを組み合わせて展開していくと、群舞であっても対立や相補の要素の分解からなるとすれば、デュオ的なものに還元できることになる。メインのダンサーのバックに様々な群舞が展開されるというのも、デュオ的なものの延長線上にあると言える。というわけで、ソロとデュオから群舞まで、およそほとんどのダンスが、1と2との組み合わせから理解できてしまうことになる。ここで、ダンスの構成において可能性が残されているのが、トリオの領域ではないか、と、いつのころからか考えるようになった。三人の異なった質を担うダンサーの組み合わせであるからこそ可能な構成や組織がありえるのではないか。そして、その可能性は、まだまだ開拓されないままに残されているのではないか。あるいは、三に還元できる群舞を、三人のダンサーの動きに結晶させてしまうこと。そんなわけで、三人のダンサーが舞台に現われたときには、1+1+1にも1+2にも還元されないような、3のダンスが実現されはしないかと待ち構えるように見る、というのが私の習慣になっている。