Dance Garop VIBE/神村恵

リアダンスコレクション4 8月3日(水)19:30の回を見る。


・Dance Garop VIBE「息を数える」

出演=ソン・ソンヨン ユ・ジュヒョン キム・ソンウン チョン・インファ チョン・ソンイ 他
振付/キム・ヒジ


交響曲のような構成を持った四人の女性ダンサーが出演する作品。最初のパートは劇場の壁のそば(客席前を第四の壁として)の四角のライン上を四人のダンサーそれぞれが逆時計回りに進みながらところどころで腰を屈めたりしながら小刻みで抽象的な振りを提示していくというもの。

そのまま、ミニマルな展開が続くのかと思ったら、さにあらず。バラエティ豊かに作品は展開していくのだった。

線の上をたどっていたダンサーが順番に倒れこんでいき、最後に残った一人が舞台中央にでてくると、より滑らかで全身をたわませた叙情的なダンスを行って、倒れこむ。そこで、次のパートに移っていった。

三人のダンサーがからむパートでは、モダンダンスと、いわゆるバレエが融合してゆくような方向の振り付けで、ダンサーが裸足なわけだけど、バレエのステップ(いわゆるパというか)を思わせるような所もあったり。

あるいは、ソロのパートでは、床をずるずる動くような動きから、寝転んだ姿勢から腰を掲げ足をもちあげたりしつつ、立ち上がっていって、球をなぞるモチーフに執着した果てに感情を爆発していくといったモダンダンス系の常套ともいうべき振りが披露されたり。

かと思うと、四人のダンサーが舞台に散らばって、日常の身振り(顔を洗ったり服を着替えたり)を誇張したようなせわしない身振りを提示していくパートもあったり。

音楽もテクノ調からクラシックの弦楽合奏からガムランのアンサンブルをベースにギターやベースも加えてジャズっぽくモダンにアレンジしたものまで使われていた。

最後は、最初のパートのような動きを時計回りになぞって、そこに様々なそれまでのパートのモチーフが想起されたりしながら、締めくくるのだった。

なんとも折衷的な作品だと思った。

一度様式として成立してしまったものは、時代を越えて生き残る、というのもよくわかることだし、だから「何故今それを」と疑問に思うような作品がいくつも作られてしまうのもある意味当然のことだし、時代が求めるものが何かわからなくなってしまっているときにそれが折衷的な形態を取ってしまうということも、よく分かることで、ダンスが芸術としてアカデミックに確立されてしまっていることが、韓国においては逆に、ダンスの必然性を見失わせているのかもしれないというようなことを考えてしまうわけだった。

しかし、朝鮮戦争もあり、その後軍事政権下の時代も長く続いた韓国では、日本が80年代に通り過ぎなければならなかったところを今通り過ぎているのかなとか思うこともあって、日本で見るのとは別の必然性が韓国においてはあるのかもしれない。


・神村恵

自作自演のソロ作品。登場する神村さんは丈の短い作業着風のズボンに、Tシャツ、それにざわっとした長髪姿で、なんだかユニクロのCMにでも出てきそうな出で立ちなわけだけれど。

上手奥の床に、頭を角に向けて斜めに横たわったところから舞台は始まる。グランジって言ったら違うのかもしれないけど、まあ、そんなふうなレイジーなというかロック調の曲にあわせて、腕を震わせながら開いていく。そういった体の微細な震えが立ち上がる身振りにまでつながっていくような様子だ。

作為的な振りはそれほど織り込まれていなくて、衝動のままに動いていく風ではあって、でもその衝動というのがしかし、最初に書いた風なある種の類型的なキャラクターに収斂したところで解釈されそうな雰囲気もあるのは、その枠組みが支えとなって初めて踊れるということなんだろうか。そうだとしたら、ラディカルさにおいて欠けるということにもならないだろうか、とか思いながら見ていた。

前回新人シリーズで見たときよりも構成上のメリハリは効いているみたいで、完全暗転した後、壁を叩く音だけを響かせて、上手奥のディープッラッツ備え付けの出入り口に立って、そこだけを真上から照らす照明の中に浮かび上がって、腰や手先だけを震わせている動きから、ゆっくりと前に出ていく流れ、そして、クラシック調の曲にあわせてゆったりと舞った後で、両腕を前に向けてだらりと広げて、首を真上にむけながら、緩慢に舞台前面を上手から下手に移っていくというラストに向けたシークエンスなど、抜け目無く構成されていて、投げ出されるように舞台が終わってみると、なにかわからないけどかすかな感動が萌すようだった。

いや、全体に、緊張が途切れ途切れだったりするのではないか、そこで見る側の息も途切れちゃっているのではないか、といった疑問が無くも無かったわけだけど、音楽に身をゆだねるように踊っておきながら、音楽の途切れた無音の状態を随所にさしはさみ、沈黙した暗闇に溶け入ることに抗うようにたどたどしく歩みを進めてみたりもする、あるいはそれは余韻ということなのか、しかし、余韻に浸っていると言い切るのもためらわれるその無音状態への投げ出され方というのは、ただの思いつき以上に狙うものがあるようにも思った。

というわけで、無音の使い方という点でも、なかなか巧妙だったと思う。