抽象語の効用(1)― 岡田利規とシニフィエ

今、日本の演劇において最も注目すべき劇作家/演出家であるチェルフィッチュ岡田利規さんが、先月のユリイカに書いた文章http://chelfitsch.exblog.jp/m2005-06-01/に用いられたシニフィエという用語について、ちょっとした整理をしてみたいと思う。

(注の書誌情報が間違ってたので訂正の上補足しました)

その文章で、岡田さんは、その「演劇論」http://homepage2.nifty.com/chelfitsch/engekiron.htmで用いていた「イメージ」という言葉をシニフィエと言い換えた方が良いと思い始めた、と言っている。


私は、この言い換えは、誤解を招くものだと思うし、あまり正確なものでもないと思う。
なぜかというと、岡田さんの話はそれ自体としては記号論からかけはなれた議論なので、記号論の用語であるシニフィエを用いるのはあまり望ましくないからだ。おそらく岡田さんが考えていることは、ある面で記号論以前の発想のようだし、ある面で記号論をはみ出た、あるいは、それを超え出た内容をもっているように思われる。

そう考える理由を以下に簡単に説明しておきたい*1



教科書的に確認をしておけば、シニフィエというのは、ソシュールの講義をもとにして弟子が編纂した『一般言語学講義』に由来する用語だけど、ラカンとかボードリヤールとかも、この言葉を使っているらしい*2。「彼(ソシュール)の用語法とみなされるものは、言語学をはるかに超えて流布し、その影響は強力であったと同時に、曖昧きわまりない性格をもって拡散していくものでもあった。」*3というわけで、岡田さんがどのような「シニフィエ」概念に依拠しているのかは、岡田さんが参考図書を明示していないのでわからないのだけれど、岡田さんが読んだものが、すでに大いに混乱したものであった可能性は大きい。


私は、ソシュールの『一般言語学講義』を読んだことはないのだけど、とりあえず概説書レベルの知識で話を進める。

ソシュールシニフィアンシニフィエ概念は、記号体系としてのある言語(ラング)を分析するための概念であって、それ自体、既に成り立ったものとして共有されているある言語(ラング)の体系性という概念を前提にして理解されるべきものだ。

そして、言語(ラング)の体系性をそれ自体として研究するためにソシュールパロール(実際に話されている言葉)と、体系としてのそれぞれの言語(ラング)とを区別したわけだった。

しかるに、岡田さんは、舞台の上演における、それぞれの発話や身振りの遂行の場面を問題にしている。つまり、パロールの次元を問題にしている。ソシュールは記号体系の総体としてのラングの次元において、シニフィアンシニフィエという概念を定義しているので、その時点で、ソシュールの理論(とされるもの)では扱いきれない領域のことを岡田さんが考えていることは明らかなのだ*4


別の角度から言うと、ソシュールにとってシニフィアンシニフィエという概念は記号体系としての言語を構成している構成要素としての個々の記号(それは語によって例示されるが、語が言語の要素とソシュールが考えていたわけでは必ずしもない)の成り立ちを説明するためのものだが、岡田さんの議論ではどうやらセンテンスよりも大きな範囲のまとまり、ないし、個々の身振りというよりも長い時間的幅をしめる身振りの流れに対応するものとしてシニフィエという語が考えられているようでもある。この時点で、単位的要素としての記号の分節を前提にしていない岡田さんの話はソシュールとはすれ違っている。


さて、岡田さんは「しぐさも言葉も<イメージ>から生成されてくるものだ」と述べている。『ユリイカ』2005年7月号の件の記事から、イメージという語の説明を引用してみる。

ここでいう<イメージ>とは、言葉という形や、しぐさという形を取る以前の、グロテスクな塊のようなものが溜まっている場所みたいなもののことです。人はそこから言葉という形にして、あるいはしぐさという形にして、一部を取り出して見せます。(p.74)

次に、某概説書から、ソシュールの用語についての解説を引用してみる。

(言語記号は)無形の観念の塊りを《 因習的・恣意的 》に分割したものであり、これを音と結びつく範囲で区切って概念を作っていくことである*5

あるいは

言語記号は無形の意味のsubstanceの塊を因習的に分割したものであり・・・・(中略)・・・・逆に音の無形のsubstanceも、意味と結びつく範囲でいくつかのイメージに区切られていく。・・・・その組み合わせがformeをつくる*6

つまり、シニフィアン(音のイメージ)とシニフィエ(概念)が紙の表裏のように結合することによって記号が成立し、いわば、音の塊りは音韻として、思念の塊りは概念として、分節され形を持つことになるのだが、シニフィアンシニフィエの結合が成立する以前は、音声も思念もたとえて言えば「混沌として無形」なのである。語による表現が成り立つ前には我々の思念とは「無形の区別しがたい塊りに過ぎない」*7わけだ。つまり、『一般言語学講義』でのソシュールの用語法に忠実に言うならば、岡田さんのいう<イメージ>とは、「シニフィエ以前の何か」、ということになるだろう。

そして、シニフィアンシニフィエの結合によって音と意味の二重の分節がなされることにおいて記号が成立するのであり、シニフィエからシニフィアンが生成するという一方的な関係は想定されていない。それはあくまで、相互的に成り立つ分節である。そして、この分節は、記号体系としてのラングにおいてすでに成り立ったものとして考えられているわけだ。個々の記号の分節は、他の諸記号と排除し合う関係においてそのシステムの総体において成り立っている。そういう記号の秩序において、シニフィエが成り立っているとすると、それは、個人が豊かにしたり貧しくしたりできる何かではないはずなのだ。


岡田さんが言うように「形をなす以前のもの」というニュアンスをこめてシニフィエという用語を使っている論者は居るのかもしれないが、そういう用法はソシュールの用語法からは逸脱したものだということになるはずだ。


さて、記号論が記号を成立させる構造の体系性を前提としている以上、岡田さんの議論は記号論的な発想とはあまり関係ないところで展開されていると言えるだろう。

岡田さんの言うシニフィエというのは、どうも、言葉の意味を、その話者が言おうと意図して念頭においている内容として考えるような構図で理解されているのではないかと思う。そう考えると、無形の思念の塊(岡田さんが言う < シニフィエ > )から言葉が生成する、という図式はよく理解できるように思う。もしそうだとすれば、それは、記号論が成り立つ以前の意味についての了解にむしろ近いものと言えるかもしれない。むしろ、表現、表出論的な構図を描いているとでも言うか。


さて、記号論を超え出ている、というのは、スタティックな言語の体系性ということを超えて、意味作用が生成する現場を捉えようとしている点においてのことだ。もし、そう言えるとすると、岡田さんがシニフィエという言葉を使おうとした理由には、まったくのでたらめとか単純な無理解とかに帰すことのできないものがあるような気もする。

ドゥルーズがシャトレ哲学史に寄せた、構造主義を解説した文章なんかによると*8構造主義の功績というのは、想像的なもの(イマジネール。想像界って訳されるんでしたっけ)と現実に知覚される世界との対比から言語や無意識を説明する立場に対して、記号体系的な秩序(サンボリーク。一般には象徴界って訳されるんでしたっけ)の領域の働きを想定した所に帰せられることになるそうなのだけど、岡田さんの発想の中に、身体感覚と想像力のむすびつきに演技やパフォーマンスの源泉を求めるような考え方とは別の思考回路を求めるところがあったんじゃなないか、という気もする。

シニフィエという用語は、イメージという言葉よりも抽象的である分だけ、想像力とかいう言葉を持ち出すときに陥ってしまいがちな思考のパターンから自由に思考を進めることができそうな感触を与えるのではないだろうか。


岡田さんがイメージという言葉に込めようとした「言葉という形や、しぐさという形を取る以前の、グロテスクな塊のようなものが溜まっている場所」という意味合いは、たしかにイメージという言葉には収まりきらない感じがする。この、いわば理論的に想定された領域を思考するための概念を指すものとして、シニフィエという用語が要請されたということだろう。


ドゥルーズのまとめに依拠すれば、記号体系的な秩序(シニフィアンシニフィエの体系)というのは、あくまでそれが織り成す差異の総体において潜在的に成り立っているもので、それが個々の発話などに顕在化するプロセスというのはまた別の次元に成り立つものだということになるみたいなのだけど、岡田さんがシニフィエの一語で名指そうとしているのは、「象徴界想像界の相互作用」とか言うくらいには複雑な働きが成り立つ領域のことではないかとおもう(そういう言い方も乱暴なのかもしれないけど良く知らない)。

まあそれでも、岡田さんは理論家として語っているわけではなく、さしあたって劇作と演出という創作の現場で、その現場を成り立たせている条件において有効な図式があれば良いということだろうから、言葉の来歴はどうであれ、大雑把な図式的区分が作業仮説として成り立てば良いのであって、その作業仮説を説明するのにどんな言葉を都合よく使おうがそれは岡田さんの勝手であると言えなくもない。そういう場合に、抽象的で意味の実感がわかないカタカナ語が便利だというのも良くわかる話だ。

(8/1記す、8/2,8/3,8/4加筆訂正)

*1:この岡田さんの言うイメージをシニフィエと言い換えることについては、すでにqueequegさんがちょっと疑問を呈していた http://d.hatena.ne.jp/queequeg/20050725#20050725f1 。ググッて確認した程度だけど、このほかにはあまり突っ込んだ議論は見かけない。ひょっとして、どこかにすでに論考が発表されていたりするのかもしれないが、見落としがあったら申し訳ない。シニフィアンとかシニフィエとかなじみの薄い言葉なので、生半可なことを言うのもためらわれるなあと思って黙ったいたのだけれど、他に言う人が居ないなら言っておこうくらいの気持ちでにわか勉強してみた。< イメージ >をイマージュと呼びかえるのも大いに疑問なのだけど、それについてはまた後日書きたい。

*2:ボードリヤール記号学的用語法についてはhttp://www.socius.jp/lec/16.html「16−3 記号論的解読−シニフィエシニフィアン」にまとめがある。このまとめの内容の信頼性はどうなのか、わたしはボードリヤールなんて読んでないので判断つきかねる。『現代思想を読む事典』(講談社現代新書ISBN:4061489216ィアン/シニフィエの項目を丸山圭三郎が担当していて、そこではソシュールの用法を説明したあとにラカンの用語法について簡単にまとめているhttp://www.kt.rim.or.jp/~katsuma/bunkof/sisouyougojiten.htmlラカンなんて読んだこと無いので(以下同文)

*3:『フランス哲学思想事典』(弘文堂)p.381 isbn:4335150431 ソシュールの項目。書いたのは前田英樹氏。ちなみに、岩波哲学思想事典でもソシュール関係は前田氏が担当している。日本のソシュール受容は前田英樹以前と以降で時代が画されているというところだろう。更に付け足しておけば、前田英樹氏はソシュールベルクソンを結ぶような論考を書いてもいるのだった。

*4:『一般言語学講義』でのソシュールは、ラングの言語学パロール言語学とを区別したあとで、ラングの言語学を展開し、パロール言語学については展開しなかったというわけだった。

*5:G.ムーナン『ソシュール 構造主義の原点』丸山圭三郎他訳(大修館書店)isbn:4469210072 p.ix

*6:G.ムーナン、前掲書、pp.254-255

*7:G.ムーナン、前掲書、p.153-155 参照

*8:A quoi reconnait-on le structuralisme? (in Histoire de la philosophie, dir. F.Chatelet, Hachette, 1972)その論文が L'Île déserte et autres textes: Textes et entretiens 1955-1974(Edition par David Lapoljade, Éditions de Minuit, 2002)にも収録されたわけだ。 翻訳も二つあるみたい。「構造主義はなぜそう呼ばれるのか」(中村雄二郎訳、『シャトレ哲学史VIII――二十世紀の哲学』所収、白水社、1975)、そして『無人島 1969-1974』(河出書房新社isbn:4309242901はず http://books.yahoo.co.jp/book_detail/31149884。私は原著しか参照していないので、これらの邦訳で訳語がどうなっているのかは確かめていません。ちなみに、読書会しているひとたちがいた http://www.ehmtm.com/PukiWiki/pukiwiki.php?%B9%BD%C2%A4%BC%E7%B5%C1%A4%CF%A4%CA%A4%BC%A4%BD%A4%A6%B8%C6%A4%D0%A4%EC%A4%EB%A4%AB