こう見えた『古道具 中野商店』

川上弘美の小説は、濃密な気配の交流が可能な関係や場所や場面を描き続けてきた、と、とりあえず言ってしまって良いと思う。

例えば、「神様」における、「くま」と語り手との関係とか、『センセイの鞄』におけるツキコさんとセンセイとの関係というのは、そのような、濃密な気配の交流が可能な関係というわけで、まあ、描き方がより現実的か現実離れしているかの違いしかない。

ちょっと浮世離れした人には濃密な気配を感受できる特権的な感受性があって、くま、とか、センセイとか、濃密な気配を体現した者と関わり合うことができるというわけだ。

それで、濃密な気配の交流の世界を妨げるような、どこか世知辛くもたくましくて乱雑な者は排除される。ツキコさんに言い寄る同窓生とか。

それはつまり、コミュニケーションスキルに長けたものが、適切なマーケティングによって、利得を確保するみたいな、市場原理とかマスコミュニケーションとかによって規格化された世界に適応した人物だ。

そういう現代社会で主流となっている作法においては、濃密な気配なんてものは非効率なものとして排除されがちであったり、「本物志向」とかいう風にパッケージされて、「ランク」を上げる差別化の指標として流通させられてしまったりする。いずれにせよ、濃密な気配の交流は妨げられてしまうわけだ。

それで、川上弘美の小説では、濃密な気配を醸す場面とか、場所として、規格化が及ばないような、骨董市とか、小料理屋とかが好んで描かれることになる。

濃厚な気配の交流は、恋愛という形を取ることもあるが、それは一つの形でしかない。『溺レル』において、濃厚な関係が、死者だったり、常識を超えて生きながらえるような者たちの間において描かれたりしたのは、結局、その濃密な関係というのが、「生き残る必要」とは別のところに成り立つものと想定されてきたということの裏返しなのだ。


それで、『古道具 中野商店』なんだけど、「神様」に始まって『センセイの鞄』で一つの頂点を極める濃密な気配の交流の世界を引き続き描きつつも、いままでの小説とは別の構図を描いていると思う。


『中野商店』の語り手である主人公は、濃密さの世界に惹かれるだけの感受性は持っていて、そのために現代社会では生き難くなってしまっているような人なんだけど、その、濃密な交流の世界で生き続けることは出来ない人なのだ。

たまたま「中野商店」というお店にアルバイト店員として雇用されていたから、濃密な交流の世界に触れることができたし、その生活はとても居心地の良いものだったのだけれど、けっきょく、その濃密さの世界に生き続けるだけの業のようなものというか、強度というか、を、主人公と、それに釣り合う相手は、持って居なかったわけだ。

その点、泡沫のような古道具屋というのは、見事に、濃密な気配の世界と効率至上の資本主義市場原理世界との接点を設定することに成功していて、そういう設定を見つけてしまう川上弘美という人はほんとうに抜け目無い人だ。

この小説では、濃密さの世界に生き続けるためには、それなりのふてぶてしさというか、無神経なずぶとさというか、そういうものが必要であることがはっきり示されていて、濃密さの世界には濃密さの世界なりの非情な掟があるのだった。

濃密さの世界に魅了されながらもそこに生き続けることができない人は、結局ほとんどただの「負け組」になりそうなんだけど、派遣社員とかIT産業とかいまどきの雇用市場に耐えるだけのたくましさを身につけることによって、それなりの幸せを得られなくも無い、というような仕方で、この小説は、一見すると取ってつけたようなハッピーエンドを予想させる風に終わる。

最初にこの小説を読み終えたときには、セイフティーネット付き小説だなあ、とか思った。あれかな、セイフティーネットに読者を突き落とそうとする小説、と言った方が良いのかな。

濃密な気配の交流につい憧れてしまうような感受性豊かな川上弘美ファンの読者にたいして、濃密な世界を生きるのにもそれなりのたくましさが必要だし、それだけの非情さみたいなものの持ち合わせが無い、気弱で感受性だけ豊かなようなひとは、なんとか世間と折り合いつけてそれなりの身近で調達できる幸せを掴んでいかないと辛いよ、そういう月並みな幸せみたいなものは、今の世の中、働いているだけである程度保証されているんだよ、と言っているような小説なんだと思ったのだった。

http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20050516#p1
で言う、諦めさせるカウンセリング、みたいな。

濃密な気配の交流の世界に生き続けられる人は、セイフティーネットなしの綱渡りをしてしまう人、そういう綱渡りでなければ生きられないような人、あるいは、転んで落ちないバランス感覚なりしぶとさなりを持っている人、あるいは、綱から落ちちゃっても良い人、なのだ、というか。


それで、川上弘美という作家は、濃密なものに触れることを文章の中で実現していこうと考える一方で、作家として生き続けるということもちゃんと考えていて、そういう面が、小説の中でもエコノミーとかロジスティックスとかを踏まえる方向で現れたのが『中野商店』じゃないかという風に思う。

ともかく、濃密さにおいては『いとしい』ですでにひとつの極点に達してしまい、それをリアリスティックな物語として展開する上では『センセイの鞄』ではやくも完成した世界を作ってしまった川上弘美が職業作家として「生き残って」「書き続けて」行くために残されたことは、濃密さの世界は濃密さの世界として描き続けるとして、その世界を取り上げる角度や方法を順列組み合わせ的に置き換えて別のパターンを試みることだけなんじゃないかと思う。

指で二進法を数え続けるように・・・・。

(2008年7月25日 Mixiから転載)