朗読千夜一夜〜第十一夜〜 

7月2日、朗読千夜一夜を見に行く。本番数日後にちょっと下書きしていたのだけど、今日書き足したので、むらがあるかも。

以下、松井茂さん以外は歌人の皆さん。出演者順に軽くコメントします(参考リンク付き)。

・栗原寛
ホモセクシャルな性の世界を描く連作を情感たっぷりに朗読。丹念に情景や感覚を描いていてもうどういう風に行為が進むのか目の当たりにするみたいな。同性愛即不自然ではないにしてもそれを不自然と思わせる文化においては同性愛は人工性によってそれに対決しなければならなくてそこで定型というものは人工性を補強するツールとして活用されたりするのかなあとか考える。眼がキラキラしてました。

http://www.geocities.jp/litz0217/


黒瀬珂瀾
二つの連作を朗読。体調万全ではなかったそうで、こもりがちな声で全体に淡々と読んでいく。BGMもつかわず、ざっくばらんな挨拶も交えつつのプレーンな朗読という感じだった。

サンシャイン60のビルをドルアーガの塔に重ね合わせて、そこにかつてあった巣鴨プリズンから現在までの戦後史を振り返るというような主題。ゲームに援用されるギルガメッシュ伝説みたいな、時間を越えて神話的なものが生き延びる姿を一方におきながら、それに対する歴史=脱神話をもう一方において、その交錯を、個人史を戦後史へと媒介していく通路として置いている。『ギルガメッシュナイト』とか召還されたり。すぐ、伝説の深夜番組、とか言ってしまうわけだけど。歴史とし散文化し過去とするか、現在との関わりのなかで神話化して生きるかの違い。

戦後史として解消してしまうこともできないものもあり、それを安易に神話化することがまた過去を裏切ることにもなりかねない一方で、現実の歴史の流れそのものが(常に既にというか)いやおうなく散文化を推し進めてもいるわけで、そういう困難さのなかで自らそれを生きた歴史を批評的に(?)救出するため、短歌の連作という、ある種、前近代的なものを近代に蘇生しようとするために要請されたみたいな形式を用いる、というのは、なかなか含蓄の深いものなんじゃないかとか思ったりもする。

なんだか、朗読のレポートじゃなくて、作品評になってしまった。

もう一つは、塚本邦雄の訃報を聞いてから葬儀に参列するまでを時系列的に描いた連作。詞書きで時刻を細かく刻みながらのドキュメント。散文だけではこういう時間感覚のねじれは掬いきれないなあと思った。あの時だからこその、追悼と、喪の再確認の作業の共有の場だった気がする。機会というのが大事だと思った。

http://www.kurosekaran.com/


佐藤有希

三部構成で、BGMもこまめに変えて、二部では早口に乱暴に朗読するというような意図的な試みを行っていた。黒瀬珂瀾の後にあれだけ堂々とできてしまうというのは、さすがに肝がすわった人だなあと思った。トランスジェンダーな生き方をしている人だからということもあるけど、鼻にこもったような中性的な発声が独特だった。

http://jiro31.cocolog-nifty.com/star/


錦見映理子、

手元に資料が無くて、だいぶ忘れてしまっているのだけど、短歌以外の自作テキストを佐藤有希さんとコラボで読んだりとか、他の詩人のテキストを読んだりとか、歌日記的な日記からの抜粋を読んだりしていた。小柄にも関わらず、底から響くような、迫力のあるそして、安定感のある、聞いていて心地よい声だった。


http://www.ne.jp/asahi/cafelotus/eliko/

松井茂+さかいれいしう

松井茂さんの「朗読」パフォーマンスでは、本人以外が「松井茂です」と言って朗読するということがあるということで、複数のパフォーマーが「松井茂です」と名乗っていて、名前を名乗ることが本人であることを保障しないということが明示されている場合もあったけど、そうでない場合もあった。

今回は、本人だったんだろうな。明らかに、人の指示によって名乗っているだけの場合とは別の感触があった。まあ、そういうところで考えておくべきこともあるような気もする。

短歌ヴァーサスのWebサイトのコラム欄に連載していた作品(ネット上のテクストのつぎはぎ)だとか、現代音楽家に委嘱された声楽によるパフォーマンス的な作品だとかを披露。

さかいれいしうさんの巧みな音声の操作がなかなか魅力的で、訓練された声の魅力を改めて感じた。狭いスペースだからなおさら。

http://www008.upp.so-net.ne.jp/methodpoem/

http://www.reisiu.info/

(7/21記す)