東直子作子どもミュージカル「ハルニレの木の下で」

歌人東直子(ひがしなおこ)さんが脚本を担当した船橋子どもミュージカル第六回公演「ハルニレの木の下で」を見てきた。地域の子どもたちが登場するミュージカルで子どもミュージカル。それで、対象年齢もお子様がメインターゲットなわけだ。

地域を巻き込んだそういう運動も、児童劇団とかミュージカル業界とかの裾野を広げる役割を果たしている面もあるのかもしれないけれど、子どもたちが精一杯舞台のうえで活躍する姿を見るのは、とてもすがすがしいものだ。

東さんが脚本を手がける舞台作品を観るのは今回が初めて。歌集は数ページ読んではため息をついて閉じるような読み方をしていたことがあって、耽読とまでは言えないけれど、その作品世界の感触は心のどこかにしっかり残っている。見られるときに見ておこうと思って、マチネの回に足を運んだ。

以下、公演案内から引用。

あらすじ■ミケルの父は、戦争を回避しようと旅に出たが、いつまでも帰ってこない。いつしか、スパイの疑いがかかるが、ミケルは信じつづける。ビートは隣国の少年。戦争で家族を失い、一人ぼっちで生きている。風の精やハルニレの木の精たちに導かれるように、二人は出会う。二人は、心すさむ時代に、「心をすます」ことができたので、精たちの姿が見えるのだ。人を信じる二人の心が、精たちの力を借りて、みんなの心を「とうめい」にする。

主人公の少年と出会って仲間になるビートという少年が最初に登場するときの台詞に、私の記憶が正しければ、相手の言葉を聞き間違え食べ物と思って「それって美味いのか?」と言うってものがあった。
未来少年コナンで主人公の仲間になるジムシーの口癖は「ラナ?それって食えるのか?」という感じなので、ああ、これはジムシーを投影しているキャラなんだなあと思う。

http://www3.nhk.or.jp/anime/conan/

このアニメシリーズは見直すたびに、このエピソードとこのエピソードが同じ回におさまっていたのか、とびっくりすることが多い。普通のアニメの二話分くらいの内容がコンパクトに収まっているのだ。未来少年コナンは、子ども向けであってこそ、しっかりしたドラマの構築が重要であることの模範例だと思うのだけど、「ハルニレの木の下で」について言うと、ドラマが欠如しているな、と思った。

状況はあるし、関係もある。でも、関係の変化や状況の変化に説得力を与えるようなドラマは希薄なのだった。あらすじでは「精に導かれるように」って書かれてあるけど、ミケルとビートの出会いも、たまたま通りかかって出会う、という感じの描きかただ。他にも、たまたま通りかかった人に助けられてしまうとか、そういうパターンで話が進むことが多かった。

そんなわけで東直子さんは基本的には劇作家的な資質の人ではないんじゃないかなあと思ってしまいました。

戦争下の物語りとしては、どういう戦争なのかははっきり描かれない。戦場がどこにあるのかもはっきりしない。ミケルの父親はどうやって戦争を止めようとしているのかもわからない。

戦争がどのように進んでいるのかについてまったくわからないまま、ともかく戦争が進んでいるらしいという雰囲気の中で話が進む。

舞台となる町は、隣国の子どもが歩いてこられる場所なのだから、たぶん国境に近いことになるのだろうけれど、だとしたら、戦線に近いのだと思うけれど、そういう緊張感は無い。

というか、そもそもいつの時代のどこの国の話なのかもはっきりしない。なんとなく、ヨーロッパ風の名前が登場人物につけられているけど、国の名前も町の名前も出てこなかったんじゃないだろうか。

子どもたちの視点で描いているから、そういう背景はわからなくて良いということなのかもしれないけれど、そういう背景の欠落というのは、ドラマがくっきり立ち上がってこないことと関係があるような気がする。

未来少年コナンでも、インダストリアとハイハーバーとの関係とか、そこでおきる侵略行為の意味とかが、きちんと描かれていたわけで、その背景がしっかりしているからこそ、コナンの冒険もドラマとして成立するわけです*1

「ハルニレ」で戦争の描写というと、そのビートという少年が家族と別れることとなった空爆らしき攻撃において逃げ惑う人々を回想シーンとして描いている場面と、隣国のスパイが逃げ込んだので捕まえましょうという公共の野外放送みたいなものが何度か流されるという場面の二つだっただろう。

戦闘行為はどこか他所でおきていて、国内では放送によって情報や行動が統制されている、という状況。ある意味、日本の現状にあてはまらなくはない。

それで、スパイを捕まえましょう、という放送で、ビートという少年がスパイじゃないか、といって町の不良少年少女たちがビートとミケルを追い詰めようとすると、ハルニレの精たちが二人をかくまってくれる。

そして、木の中に隠れているかもしれないから木を焼いて追い出そうなんて不良少年たちが言い始めると、ビートが自分から不良少年たちの前に立ちはだかって自己犠牲的な精神を発揮する。

そこに、今度は不良少年少女たちがスパイなのだ、という放送が伏線も無くなぜか流れて、他の少年少女たちが不良グループを追い詰めようとする。監視社会というもの自体の悪を描くために、悪役が同じ悪によって追い詰められるという描きかたをしているわけだろうか。

この、もっとも深刻な葛藤の場面は、ハルニレの精たちの歌によってなだめられて、少年少女たちは、おたがいに不信感を持っていたことが間違いだったと悟って和解する。

こういう筋立てが、中盤のクライマックスなのだけど、ここで、主人公たちの力では解決できないことが、精霊の導きで解消されてしまうというのは、やっぱりデウス・エクス・マキナと言う他ないなあと思う(ある意味、マクロスで言うリン・ミンメイというか)。

まあ、パンフレットの言葉を引けば「大人たちの争いに巻き込まれて傷ついた子どもの心が豊かな自然にふれて、本来の明るさを取り戻す」ということを寓意的にファンタジックに描いているということだったのだろうけど、そういう願いは願いでわからなくはないけれど、スパイ探しという形で戦争に動員されてしまった少年少女のこころが豊かな自然によって回復されますというのは、ちょっと説得力の無い話だというのが正直な感想。

というか、そういうところにしか希望を託す先がないとすれば、まあ、実際にはあんまり希望は無いということを描いているということになるのだろうな。いや、だって、国が流す放送をハルニレの精が止めてくれるのではないのだし、信じあおうとするだけで戦争が止まるわけでもないだろうし。

今の日本においては、和をもって尊しとしようとすれば、みんなで改憲を支持しましょう、有事の際には協力しあいましょう、ということになりそうなわけで、むしろあえて異を唱えることとか、利害の対立とか敵対性とかをしっかり顕在化した上で実際の解決を模索することの方が大事なはずなんだけど・・・・そこまで言っちゃうと子ども向けミュージカルの主題にはならない、ということになるのかなあ。でも、そういったことを子どもの間のドラマというレベルで展開することは不可能ではないと思う。

不良少年少女たちの悪ぶったところも描かれてはいて、そういう面では、単なるキレイな道徳訓話みたいな話では終わっていないところもあるといえばあるのだけれど、子どもたちの世界のドラマを戦争というテーマとしっかり結びつけることには失敗していると評価するべきだと思う。

未来少年コナンならば、さまざまな仕方で独裁者の暴力に対して戦うのだけれど、この劇の主人公は何をするかというと、泣くことと信じることと、ハルニレの苗を育てることしかしないのだった。そして、心が素直であれば、精霊が守ってくれるし、きっと幸せになれる、というお話になっている。未来少年コナンならば、ラナだって、拷問に耐えて抵抗するという場面は描かれるのだけれど・・・・。

「ハルニレ」は、子どもたちは戦争に動員されてほしくない、自然のささやきに耳を傾ける柔和な心をもっていて欲しいという母親側の願望を絵にしてみせた舞台だった、ということになるのかもしれない。

岩波新書の『ルポ戦争協力拒否』とかを読んでいると、戦地に自衛隊だけじゃなくて、いろんな民間企業の従業員を動員する(たとえば、輸送とか、兵器のメンテナンスとか)体制は着々と整えられていて、実際もうすでに一部ではひそかに行われているみたいで、そういうことを考えると、近い将来に今日の劇をみていた子どもたちの親が戦地で命を落としてしまうというようなことも大いにありえるよなあと思う。

今回のミュージカルでは、死んだかもしれないと思われた父親が無事に帰ってくるというラストで、そこに救いがある話になっていて、それは、そうであってほしいという願いを形にしてもいるわけだけれど、実際、既に平和のためにイラクに赴いて命を落としている日本人もいたわけで、そういうことは子どもだってなんらかの形で知ってはいるのだろうと思うわけだけれど、戦争というテーマを大胆にもとりあげるというのならば、そこにおいて避けがたい死といかにして向き合うのかということについても、もっと正面から取り上げてもらえたらよかったかもしれないというようなことも考えないではなかった。
(2008年7月29日 mixiより転載)

*1:連続物アニメと、休みを入れても1時間半という子供向けのミュージカルでは条件が違うから比較の対象にはならないかもしれないけれど、背景をうまくもりこむことは不可能ではないと思うけれども、どうだろう