「コンベヤーは止まらない」の話を続ける

http://d.hatena.ne.jp/yanoz/20041217#p1
の続きを書きます*1


ここで問題にしている舞台作品については、
http://wonderland.tinyalice.net/cgi/mt/archives/000245.html
で、物語りの流れや、おおよその全体象について語られています。

私が見たのと、上記サイトの北嶋孝さんによる記事で言及されている上演は、公演日が違いますが、同じヴァージョンです。全体象については、北嶋さんの記事を参照してください。

では、前回の記事をアップした段階で書きかけていて、公開していなかった部分を引用しながら進めます。

まず、メインの舞台の造作について私の草稿はこんな感じでした。

舞台は、コンクリートブロックを積み上げて作られている。その演技スペースを両側から囲むように、客席の雛壇が八の字を逆にした形で、向かい合わせに作られている。コンクリートブロックをくみ上げた舞台の周りには、舞台に上がらない役者が座る座席がしつらえられている。

正方形の広いスペースが円という漢字の形のようにに三つに区分されていて、階段状に高低が付けられている。小さい二つの正方形の一方が一番低く、長方形のスペースが中層、残りひとつの正方形が一番高くなっている。この抽象的なスペースには、小道具以外の装置はなく、衣装と小道具だけで空間が様々に変容されて、工場の一室になったり、民家の一室になったりする。

北嶋さんの言う、「簡素なステージ」というのは、こんな感じでした。北嶋さんが「周縁を巧みに使って効果を上げています」と言っているのは、この、目算で5メートル四方はありそうなコンクリートブロックがくみ上げられた正方形の舞台のフチの部分、そして、その周囲にめぐらされた出演者席の活用法について言及しているのでしょう。

たとえば、冒頭のシーンはこんな感じでした。

舞台の冒頭、コンベヤーの前に並んでラジオを組み立てる姿がマイムで上演される。それと同時に、演技スペースの中央に吊り下げられているスクリーンに、舞台で上演される戯曲が書かれた60年代ころを彷彿とさせる、働いている女工さんたちの記録映像が上映されている。

コンベヤーのラインが流れている様子を、明滅する照明の動きであらわしている。この、流れるコンベヤーの照明による象徴的表現は、舞台が進む間に何度も繰り返しさしはさまれることになる。

そのコンベヤーのラインについていた一人の女工さんの手が止まってしまう場面から、ドラマがはじまる。

コンベアーのラインは、私が座っていた席からすると左手側、向かい合う客席からみれば、右手側*2の一辺に並んだ女子工員役の役者のマイムによって、あらわされていました。

コンクリートブロックでつくられた、平たい舞台のフチの部分が、並んでなされる作業のマイムと照明の明滅によって浮かびあがる一方進行的運動のイメージによって、コンベアーのラインへと変容するわけです。

確か、繰り返されるコンベアーのマイムシーンは、待機用の役者席から乗り出すようにして、演じられていたと思う。しかし、他の場面では、全ての役者は正方形の舞台を取り囲むかたちで待機用の席に座っていて、背筋を伸ばして舞台で進むできごとのありさまを、客席と一緒になって見ていた。

コンベアーのマイムは、客席を含めた舞台全体が薄暗くなっていて、舞台とその周辺の待機席、そして客席との違いは際立たない、そういう状態で上演されていて、そこでは、劇場となる横長の直方体をなした部屋は、マイムと照明のスペクタクルの中に埋没してしまうようになっています。客席も待機する役者も、コンベアーに並んだ女優たちも、コンベアーの仮象の中に飲み込まれてしまっているかのように。

このコンベアーのイメージは、劇中で、照明の明滅だけで運動のイメージが作られることによって、繰り返し想起させられて、舞台のひとつの基層をなしています。いわば、資本の運動がスペクタクルとして舞台の根底にあるわけです。

それに対して、それぞれの人物がわたりあう様々な場面のほとんどは、四角い舞台の上で展開する劇と、それを取り囲む待機席の役者、そして、それを二辺から囲む観客の姿が対峙する形で進行します。ここでは、舞台上の演技は、待機席から舞台に上がった役者がしていることであることが、明示されており、待機している役者が舞台を見ている姿は、客席の目に明白に示されていて、演劇という虚構がいかになりたっているものかが示されています。

待機中の役者が舞台に上がり、舞台から降りる様子は、様式的に誇張された身振りによって強調されています。待機席から立ち上がり、舞台に上るポイントまで移動する、あるいは、舞台から降りて、待機席に戻る姿は、きびきびとメリハリのある動作によって、観客の目に付くようにされている。

そして、舞台のフチが部屋の入り口に擬せられて誰かが入っていくときには、そのドアを開ける音を、座っている別の待機中の役者が「ガラガラ」とか「バタン」とかという擬音を発することで、あらわしていました。これは、あからさまに、待機から、演技空間の虚構へと移行する境界線が、擬音という虚構によって、虚構として成立させると同時に、虚構であることを暴く、そういう構造になっています。

待機席に座っている間は観客と変わらない役者たちが、ガラガラとかという声だけで舞台に上がっていく。このことは、演技空間の虚構と観客席を隔てている境界線も虚構のものに他ならず、客席にすわる誰もが、待機席の役者のように、権利上、虚構として演じられている出来事のなかに役者として立つ可能性も与えられているのだ、ということを示唆しているように見えます。

ここで、観客の直接参加は、舞台を取り囲む待機席の役者たちによってつくられた虚構の壁で退けられているわけですが。舞台を取り囲む役者たちは、観客席に背を向けてもいるわけです。

虚構を虚構として異化しつつ、その異化効果そのものを、打ち消すようにして強化し、実際は舞台上に上がることはできないけれども、舞台で演じられていることは、日々誰もが演じていることなのだということを示唆する、そういう入れ子構造が、舞台の中核をなしていると言えるでしょう。

舞台の基層をなす、資本のスペクタクル、その上層に中核をなす、異化効果の反転による入れ子構造、とりあえずこの重層構造があったことを理解してください。

さて、前回の記事でわたしは

教育の場での上演という営為の中にあったのは、単なる妥協と言うべきものではなく、その両義的緊張そのものを積極的に評価すべき事柄だったのだと思う。そのあたりの事情について、もうすこし作品のディテールを語りながら、考えてみたい。

と書いていました。

そのとき考えていたポイントは、ストライキが勃発する場面の演出です。

舞台の上のヒロインに、ひとりの(未)青年がストライキのアイデアを高らかに告げたとき、待機席にならんで舞台を見ていた役者たちは、いっせいに隣り合った役者たちとひそひそと噂話をするような演技を始めます。

下請けの家庭のなかに浸透してゆくストライキの戦略、そしてストライキ決行の全体意思は噂話が広がるようにして、固められる、とでも言うかのように・・・というわけです。

この場面で、いわば、中核をなす入れ子構造が転倒させられることで、もうひとつのスペクタクルが上層に形成されてゆくことになる。

ここに「両義的緊張」の構造が舞台化されているのではないか。

そんなことを私は論じたかったのでした。しかし、わたしは、ここからどのような結語を導くべきか、いまだにまったくわからないままなのです。

*1:ちなみに、前回の記事の「トラックバック」欄から、演出を手がけた大岡さんの「ダイアリー」内の関連記事が読めます。

*2:向かい合う二辺から舞台が客席に挟まれていて、どちらも正面と言えるようになっているから、上手、下手、とは言えない