について(承前)野島秀勝の場合


今回は
ライオネル・トリリング『<誠実>と<ほんもの>』野島秀勝訳(法政大学出版局
ISBN:4588002686
の「訳者あとがき」から。

「人間がもっともリアルな状態に肉薄し得るのは、われわれすべてに共通な<錯乱の瞬間>のなかにあるのではなく、むしろ霊的権威に依存する倫理的魂の葛藤の瞬間のなかにあることは間違いない。もし諸君がこの葛藤をそっちのけにして、寛容、博愛、悪気のなさ、あるいは購買力の再配分と拡大、それに加えて選良の側での «芸術» への帰依などによって、世界はひとが望むかぎりに良いものになるのだと主張するなら、そのときは人間がますます実体のないものになってしまう時だと覚悟しておかなければなりますまい。」(『異神を求めて』)

これは、エリオットからの引用の箇所なのですが、おそらく、野島氏自身が訳した文ではないかと思われる。野島さんのような人がリアルというカタカナを使ったのは、それが翻訳不可能だからに他ならないでしょう。こうしてみると、「リアル」がその後しばしばラカン系訳語の «磁場» において使われてきたのは皮肉というほか無いような気も。

この本は、旧来の英文学的教養が、その後の「クリティカルセオリー」たち*1によって崩されてゆく現場を捉えたような本で、R.D.レインや、フーコーを英訳してる若手研究者とかが槍玉にあげられている。その意味で思想史を主題にした書物でありながら、その存在自体が思想史的にいろいろ興味深いというような本なんですが、癖のある訳文を作った訳者のあとがきも、なかなか気合の入ったもので、ポストモダンへの警鐘が鳴らされていたり、興味深いものです。

私とて、互いにじゃれ睦んでいる犬たちに冷水を浴びせるような無粋な真似はしたくはない。だが、しかし……

ここでいう「犬たち」には、たとえば往時の田口賢司とかの名前があがるというわけだろうか。あ、犬彦って人も居た。…。

*1:日本で言えば『現代思想』という言葉に当たるのが、英語では Critical Theory と呼ばれていることになるでしょう。たとえばhttp://www.sla.purdue.edu/academic/engl/theory/とか。アメリカの本屋でドゥルーズとかフーコーとかは、「哲学」の棚には置いてなくてクリティカルセオリーの棚に置いてあることが多いようです。http://www.uta.edu/huma/illuminations/とかは、狭義の、ということでしょうか。