ポツドールのアニマル

10/8ポツドールの公演「ANIMAL」*1を、三鷹芸術文化センターに見に行く。映像では見たことがあるがポツドールを舞台で見るのは初めてだ*2

開演前からギャングっぽいヒップホップが流れている。開演すると、イントロ映像からスタート。劇団名や暴力を暗示するような抽象的なイメージの後、PM3:00といった調子で舞台でおきる出来事の時刻が表示され、スクリーンが上がると、きわめてリアリスティックな舞台装置が現れる。

堤防の斜面へと、ガード下というのか、コンクリートの地下通路が開けている。下手の奥にホリゾントで夕方の空を巧みにあらわしていて観客はトンネルの中から外をのぞくような感覚を味わうはずだ。その向こうには、川が流れているのだろう。むき出しのコンクリートが埃っぽく汚れている質感が良く出ている。グラフィティというか、ヒップホップ調の落書きがされている様子も、いかにも本物だ。上手手前に地下通路が斜めに延びていて、出口から光が差し込んでいる雰囲気がうまく再現されている。このセットは、なかなか見ごたえあるもので、ちょっと驚いた。しかし、古典的なリアリズムと言っても良いようなものだ。

土手の階段に置かれたラジカセからヒップホップの曲が大音量で流れる中、10人ばかり若者が、乱暴に騒いでいる。女の子が一人だけいる。そんな状態がしばらく続く。音が大きすぎて、舞台の上で喋っている言葉は客席にはほとんど聞こえない。

おそらく、全体のドラマは、次のようなものだ。若者グループが、地下通路で一晩騒ごうという感じで集まったところが、破目を外しすぎてしまって、その中の一人が死んでしまう。その死体をどこかに放置して逃げてみようかとしてみたりもするが、そんなことをしてもばれるのはわかっている。そんな状況でも、女の子を口説こうとしてる奴もいるし、俺の女に手を出すな的に怒る奴も居る。それで、どうしようもなく、だらだらと時間をやり過ごそうとしていると、死んでしまった男の携帯がなりはじめる。携帯を興味本位で出してみる奴がいる。それを奪う奴が居て、また喧嘩になる。何も解決しないまま幕。

ほとんどの時間、大音量のヒップホップの曲のせいで、言葉は断片的にしか聞こえてこない。曲は、ラジカセから流れているという設定なので、役者が音楽を止める場面もいくつかあるのだが、その場面では、沈黙が続く。死体を前にした沈黙だ。

会話によってドラマを構築しようとはせず、ドラマは、仕草の連鎖によって、ゆるく描かれている。青年団の舞台では、会話が同時進行したわけだけれど、身振りによる演技が同時進行するといった感じだ。映画の長まわしのように、集団の様子をだらしなく舞台に乗せただけといった風だ。なので、誰が集まっているのか、何が起きているのか、はっきりとしたことは何も分からないようでもある。しかし、人物の関係性や、そこで起きた事件の背景は、想像を働かせればきちんと解釈できるように、周到に説明的な要素がちりばめられている。季節は、ちょうど秋口に設定されているらしく、寒くなってきたから上着を着るなんて場面もさりげなく描かれリアリティを醸し出そうとしている。

だらだらとした時間を見せながら、途中で何回か暗転が入って、場面が転換する。3時から7時過ぎまでの時間の流れの中の、幾つかの断片が編集されて、ひとつの舞台になったという感じだ。暗転ごとに、スクリーンが降りて開演時と同じような時刻の表示がされる。照明によって時間の推移が示される。夜の雰囲気など、見事に出ている。暗転後、次の場面が始まる時には、きっぱりと人物の立ち位置が変わっている。そこにも、活人画的な構図の計算がうかがえる。

ポツドールの作風は、いろいろ話には聞いていたので、今回の舞台は全く想像の範囲内で何も驚かなかった。

今時の若者風のリアリティーが確かにある水準で舞台に実現されてはいた。しかし、このリアリティーは、集団性の上に初めて成り立つものなのだろう、と思った。この舞台の役者と演出家が、たとえば二人や三人だけの芝居を作ったとしたなら、セリフの有無は別にして、この舞台のレベルのリアル感を醸し出すことはできないだろうと思われた。いや、いかにも自然な演技というのはできるかもしれないが、そこに何か訴える力は宿らないだろう、ということだ。

たとえば、ドキュメンタリー風な劇映画というのは可能だ。出演者が、素で振舞っている姿をうまく撮影して編集すれば良いわけだ*3

この場合、出演者が、その場所やその場の人々と馴染んでいる必要がある。初対面で馴染まない感じというのも、逆に、その人物に対する違和感の地となるような、その場所に対する馴染みみたいなものが前提として必要になるだろう。カメラも、隠し撮りにするか、カメラに撮られている状況に対して馴染んでいる必要がある。そのための、馴染むための時間というのが、必要になるわけだろう。

舞台の場合、客席を前にして開演と終演の時間が決まっているのだから、その場に「馴染む」ことを妨げる条件がある。だから、ドキュメンタリー映画風なリアリズムは、演劇では難しいだろう。そこに、演技者の能動的なコントロールが何らかの仕方で必要になる。舞台に立とうとする意志が必要になる。

ポツドールの場合、集団性によって、擬似的に、ドキュメンタリー的なリアリズムを実現しているということではないか、と思った。すでにリハーサルを繰り返した役者同士の擬似的な共同性が成立している。舞台上で乱暴に騒ぎまわったり、キレて叫んだり蹴りまわったりするエネルギーというのは、舞台上の集団関係に支えられたものではないかという気がする。客席に対して自分の演技を晒すという意識は、舞台上の擬似的な共同性の中で散らされているのではないか。舞台上で目配せしたり、肩や腰を軽くたたくサインを送りあったりする、そういう共同性は、演技として立ち上げられているというよりは、演技してしまう自意識を消去するために働いていたように思う。舞台の上で仲間内でいられるから、舞台に立っていないかのように、舞台に立っていられる、というわけだ。

集団がなりたつ時、身体作法のレベルから何らかの規範が働いているはずだ。ポツドールが舞台にあげているのは、そういった身体作法の規範が内向きに閉じている様子ではないだろうか。若者の身体作法をシミュレートして、舞台にあげれば、そこに客席とは別のフレームの中に閉じた関係性が生起してくる。それを、観客がプロセニアムアーチの中のリアルタイムの3D映像として覗き見る。ポツドールの舞台のリアリティとは、このような仕方で成り立っているものではないだろうか。

暗転という操作がそこに介在していることは、この仮説の反証にはならないと思う。舞台上では明示されないそれぞれのキャラクターの設定に対する想像的な同一化の演技術みたいなものも、確かに働いているのかもしれないが、それは、リアリティを粉飾しほのめかす要素として作用してはいたとしても、それ自体としてリアリティを保つ力をもつものではなかっただろうと思われる。

その意味で、タイトルに「アニマル」とあるわけだけれど、舞台に描かれたのは、動物性というわけではなく、ある社会性の様態に過ぎないだろう。人間とは、社会を形成する生き物であり、その意味で、互いに互いを飼いならすものだ、ということは、よく示されていたかもしれないが。

死体を示すのに、袋に包んでしまう、というのも、ポツドールのリアリズムのあり方を象徴しているように思う。そこにあるのは、実は、意味上のほのめかしや解釈を唆す要素なのであって、身体の技法から生起するリアリティではないのだ。ここで、土方巽の「舞踏とは命懸けで突っ立った死体だ」といった言葉を想起してみても良いかもしれない。ポツドールは、死体袋を示すのがせいぜいというわけだ。

コンクリートの壁を蹴ったり、相手を叩きつけたりする場面では、セットが揺れてしまって、ちょっと興ざめしてしまったな。こいつら、暴れまわってみても、セットは壊さないのはわかっている、という感じで。

おそらく、劇作家的構想力がより強くあったならば、この舞台を(『24』のように)一時間半の連続した時間的継起の中に収めることもできただろうと思う。

時刻を表示する画面が、フィルムをシミュレートした画像のブレを用いていたり、終演時に「Directed by・・・」といったクレジットを表示して舞台を断ち切っていたり、映像作品の様式を舞台に取り込もうとしていることがうかがえる。これは、暗転の使い方も含めて、映像的様式を折衷することによる舞台という条件からの後退に他ならないと思う。

おそらく、映像でやっても良い企画なのだろうが、同じ作品をただ映像化した場合には、インパクトのある映像作品にならないだろう。舞台では、生身の役者が居るというだけで、保障されているリアリティがあるが、映像作品では、それだけではリアリティは出ないだろうからだ。家庭で撮られたビデオにはリアリティが溢れているはずだが、それがなぜ退屈なのか、考えてみても良いだろう。

結局、舞台へと逃げ込むことでリアリティを保障されているドキュメンタリー風劇映画、というのが、この作品の正当な評価なのではないか、と思われる。

リアリズムの理念ということで言えば、19世紀フランスに後退していると言っても間違いではないだろう。自然主義の小説というのもあったわけだけど、革命と、それを描いた絵画との関わりに類比的なものを、その図式の縮小再生産を、ポツドールの舞台に見て取ることもできるだろう。つまり、ポツドールの舞台に本来の意味での創造性を見出す余地は無いだろう、ということだ。チェーホフの方がはるかに残酷だと思う。

チラシには「青空の下。みんな弱虫小虫」という言葉がある。所詮はホリゾントの青空に過ぎない(埃じみた東京の空の感じは良く出ていたけれど)。所詮はシミュレートされた弱さに過ぎないだろう。そういったシミュレートをあえてやろうとするシニカルさが時代の雰囲気とマッチしているということはあるのかも知れないが、そんなほどほどに時宜にかなったセンスを積極的に評価する気にはなれない。芸術家的な野心のありようが、見え透いているようにも思う。

おそらく、三鷹市の企画ということで、過激さを控えた部分もあるのかもしれない。だが、たとえば性器を露出するといったレベルの過激さをそこに加えたとしても、露悪的な派手さは増すとしても、社会や文化の現状に対する挑発性をそこに見出すことはできないだろうと思う。一枚の死体写真にも勝てないのではないだろうか。

そうした意味では、チェルフィッチュのラディカルさはポツドールの比ではないと思う。チェルフィッチュの舞台にあるリアリズムの理念は、ポツドールとは全く別のものだ。

チェルフィッチュの舞台を見たあとで、現実感覚がゆらいでしまって、自分の立居振舞がいかに芝居じみているかを逐一自覚せずには居られないような経験を何度かしたことがある。ポツドールの今回の作品では(舞台に上がっていたのが自分とは別の種類の人間たちだったということもあるかもしれないけれど)そういう作用は無かった。もっと会話が聞き取れる舞台だったとしても、同じことだろうと思う。

チェルフィッチュの舞台は、いわば、現実が生起する場面を捉えようとしているとしたら、ポツドールは、起こってしまった現実を提示しているだけであり、現実であるかのような効果を狙っているに過ぎないのだ。この違いは大きい。

*1:このタイトル、英単語だけど、冠詞もなくて単数形。形容詞なのか名詞なのか判然としない。こういった文法的脈絡を欠いたあいまいな抽象性は、とてもカタカナ的な発想だとおもう。英語がちゃんとできる人なら、こういうタイトルのつけかたはしないんじゃないかと思ったんだけど、どうだろうか。

*2:ポツドールのことをはじめて知ったのは、2001年9/12に芸術見本市で開かれた、ウニタモミイチ氏司会のシンポジウムで紹介されていたのを見たときだった。

*3:最近では『誰も知らない』とかがそんな感じなんだろう。私はジャリリとかキアロスタミとかのイラン映画のことを考えている。小沢昭一とか出ているからちょっと違うかもしれないけど、勅使河原宏の『サマー・ソルジャー』のリアリズムには感銘を受けたな。今村昌平の『人間蒸発』なんか、笑っちゃうけど。