ジンジャントロプスボイセイの「かもめ」(初日に見た)

チェーホフの『かもめ』を、自殺する主人公の回想として圧縮凝縮して演出。視覚的には、簡素に様式化され、キャラクターのそれぞれもパターン化され誇張されたコスチュームでねじくれた身振りをする。そうした仕方で、登場人物たちの俗悪さだけが強調されているように思った。自殺者の目から見たならば、俗世間はこうも嫌らしく見えるものだろうか。その分、主人公の扱いは逆にあっさりしていて、ある意味、死ぬべくして黙って死んでゆくという風に描かれていたように思う。戯曲の一側面を強調して照らし出しているという意味では、戯曲の再現的上演ではなく、解釈そのものの提示である。注釈的上演、とでも言うべきものかもしれない。上演によって浮かび上がってくるのは、むしろ戯曲の豊かさである。チェーホフの戯曲を読んでいて、なんともやりきれない嫌な思いをすることがあるけど、そういう灰汁みたいなものを全部掬ってできたようなこの公演を見ると、これからチェーホフを読むときには、もっと別の側面を享受できるように思った。いやったらしい人物を、突き放して見られるような、「永遠の相」における視点に近づける、というか。
中盤、箱庭として作られた「仮設舞台のある湖畔の情景」が机ごと傾けられて舞台の下に捨てられてしまう場面は、あからさまに象徴的なわけだけど、そういう、身振りと運動の中に象徴性が造形されるあたりはジンジャンのうまいところ。そういう見せ場を浮かび上がらせるように、静止した場面が基調を作っていた。そうした閑散とした舞台に、人物間の緊張が畳み込まれてゆくのだった。様式化した発声法は、ある種の誇張としては理解できるものの、わざとらしい狙いのほうが先にたってしまうようにも思えたが、それも自殺者の主観の表現として演出されたものだ、ということなのだろうか。正直な話、聞いていて心地よいものではなかったので、少し考えてしまった。チェーホフを、感傷性から遠い場所で、残酷さを強調して演出したという面では、三浦基演出の『三人姉妹』も連想した。こちらは11月に再演されるようなのでぜひ見比べてほしいところ。