ユーモアとダンスをめぐる諸々の断章

先週書いた通り、We love dance Festial ユーモア in ダンス 東西バトル編、東京公演、全八作品を見た。
http://www.welovedance.com/humor/index.html

前橋とか松山とか岡山からのグループが京都と東京で公演できるというのは、JCDNの試みが実を結びつつあるということなんだろう。海外の作品は見送った。

いろいろ思うところあったのだけど、思いついたことを片っ端から書き留めておこう。公演の感想も書き留めておいたけれど、公演に触発されて考えたことをメモしておきたいというのが私の動機だ*1

コミカルなダンス、とは、内容のあるダンスに他ならない。

シリアスな内容を持ったダンスが主流だとしたら、コミカルなダンスというのは、傍流にでしかない。それが現状だろう。

たぶん、シリアスな内容を支えにしたり、目標にしたりして作られるダンスの、その支えなり目標なりに、コミカルなものを導入する、ということだけがなされているなら、ダンスの作り方は、それほど大きく変わらない。「ズンチャチャ」の作品や「まことクラブ」の作品には、そんな印象を持った。

「まことクラブ」なら、コミカルなシーンという目標に向けて、ダンス的な造形を施すという事であって、ダンスでしかできない内容、というわけでもなかった。パントマイムなり、只のコントなりでも、十分表現できることを、ダンスという手段を用いて行っているわけだ。その意味で、Humor in Dance というよりは、Humor by Danceと言うべきものだったと思う*2

「ズンチャチャ」に関しては、子供たちの夏休みの情景、そのノスタルジーみたいなものを描きたい、という目標があって、その内容に付け加えるトーンとしてユーモラスなものがある、という感じだ*3

北村茂美さんの場合は、捨て身のギャグが実存的なテーマに結びついて行っていたりするはずなので、また評価が難しい。「ラベンダー」は、「ダンスが見たい」でも見させていただいたけど、TRFの曲で踊るどこかシニカルさのある作品よりも、ずっと良いと思う。根性一発路線みたいな彼女の資質が良い仕方でまとまってると思う。

コミカルなものは、あえてダンスと呼ばなくても、それ自体でリズムやアクロバティックなものとの親近性を持っているということもある*4。優れた芸人の動きを、その運動性において享受すれば良いだけであって、それを殊更ダンスとして見る、というのは、ダンス中心主義的な偏りというものかもしれない。ここでは、グルーチョ・マルクスの動きはダンスとしてみてもすごい、みたいな言い方を念頭においているわけだけど。それをダンスとして意識化することと、ダンスとして意識化しないで、ただ身体レベルでリズム感だけを感受し、無意識に笑い転げていることと、どちらが「鑑賞者」の態度として優れているといえるだろうか。

さらに言えば、ダンスというジャンルからコメディの領域に越境するなら、商業的な場面で勝負してこそ生きるんじゃないか、という気もする。そうでないなら、ダンスにおけるユーモア、は所詮、亜ジャンル的なもの、下位ジャンル的なものに甘んじる他は無いだろう*5

あるいは、はじめから現在の狂言みたいな位置を狙って、プロデューサーの方々は活動していたのかもしれないけれども。はじめから文化財として保護されるユーモアの技法というか。

ユーモアにも価値がある、なんて言いながら、アートという制度の保護の下にダンス作品をおいておく、なんてのは、アートとしてのダンスをバラエティ豊かなものと見せかけて、アートとしてのダンスがはまり込んでいる隘路を表面上糊塗するだけのことに過ぎないのかもしれないではないか。

ダンスに内容を求める、というのは、どういうことなんだろう。

そもそも、ダンスとは単なる運動であって、内容などできるだけ排除すべきだ、という方向にダンスが発展したこともあった。アメリカのモダンダンスが20世紀後半にたどったのは、その方向性だったわけだろう。

ダンスが主にシリアスさと結びつくのには、理由があると思う。ダンスというものが、陶酔やエクスタシーの領域、あるいは官能性と重なり合っているということだ。ないし、感情の高ぶりみたいなものの表出としての身体運動。

昔、週刊『SPA』に、「マース・カニングハムのダンスなんて、体操だ」と貶す記事が載っていたことを思い出す。それは、勅使河原三郎を讃えるための文章だったのだけど。カニングハム(カニンガムって表記することもある)というのは、ダンスから内容を剥奪して行った代表みたいな振付家だったわけだけど、件の文章でライターが言いたかったことも、官能性みたいなものがダンスの本質にある、という話なんだろう。もちろん、ダンスの概念は、多様であって良いだろうけど。

ユーモアというのは、ダンスが持っている陶酔への傾斜を断ち切るという仕方で機能しうる。その場合、運動は感情の表出としてではなく、滑稽な効果をもたらすための抽象的な運動として構築されたりするだろう。その意味では、一度内容から切り離されたダンスの技法は、実はコミカルなものと相性が良いことになる*6

森下真樹さんの場合は、新人の自己紹介という場面を設定しながら、キャラクターを明確に出しつつ、ある種ナンセンスなギャグを展開してゆくというものだった。ある種、パフォーマーを突き放して素材に還元しつくしてしまう、という感じもする。情動や官能性から距離を置く姿勢が、コミカルなものと結びついているともいえるのかもしれない。冷徹な計算や造形性が逆に際立つという意味では、とてもメカニカルな作品だった。

ダンスによるコミカルな効果を持った運動の構築、というのではない仕方で、ダンスにユーモアが含まれる場合というのも当然ありうる。ピナ・バウシュの作品にしばしば滑稽な要素が含まれているのは、ユーモアを目標にしたというのではなく、動きを生み出すものを様々に探求した結果としてユーモアに満ちたものが出てきてしまうということなのだろう。

「yummydance」の作品は、大きな縦長の黄色の布を舞台奥よりの中央に暖簾のように垂らしている。空間構成、色彩設計もきっちりしているなあと思ってみる。洗練度では一番だったのじゃないかと思った。ピナ・バウシュの孫でありかつローザスの娘たちって言ってもそう暴言では無いんじゃないか。ああいうどこか生々しいキャラクターの押し出し方は、初期ローザスの作品に近いようにも思う*7

笑い、というのは、ある種免罪符的な機能を持つ場合もある。冗談じゃない!という言い方が意味しているのは、冗談として免責されてはたまらない、ということだ。笑いを取りに行く、という姿勢が、集団の力学のなかで果たす機能には、ある種の免責が伴っているかもしれない。容姿で勝負する場面から降りてしまう男子や女子は、自分のキャラを「お笑い担当」として設定することで、コミュニケーションの滞りを避けるというゲームをやりくりしたりする。そこで、テレビの役割分担のルールがロールモデルとして採用されるわけだ。・・・とまあ、近頃の若い人のあいだの人間関係の息苦しさみたいな話を聞きながら、そんなことになっているのかな、と思うわけだけれど。

今回の、新人女の子グループ3組を見ていて、そんな状況の反映もあるのかな、なんて考えた。「スタッカート オン スタッカート」の場合、とても太った女の子が出ていたんだけど、笑いを取りに行くから舞台で輝けるみたいな事になっているのかなあ、と考えてしまうのは、やはり偏見というものなのだろうか。まあ、笑われずに踊ってみせてくれたら、負けましたと言う外無いけれども。

「スタッカート オン スタッカート」の作品は、電車ごっこのモチーフに、ラジカセかけて交代で踊ったりするような場面を織り交ぜながら構成されているのだけど、なんだかナンセンスさと叙情性の微妙なバランスが心に残りましたね。

しかし、笑いを取りに行く路線、というのが、狭いコンテンポラリーダンス界なるものの立ち位置設定、キャラ立て戦略にすぎない、としたら、まあ、寂しい話なわけだけど。

身体表現サークルの場合、ふんどし一丁なのに、ゲイっぽい感じがしないのはどうしてだろう、と思ったりする。これは、笑いが官能性を無効にする、みたいな話なのかもしれないけれど、彼らは笑いを取りにいったりはしない*8。それだけ、なんだか非常に無垢なものを見ているという印象だけが残った*9。動きのひとつひとつは案外シンプルで、なんだかたどたどしく遂行されたりする。組み体操のピラミッドを三人でつくるのだけど、それがくるくる位置を入れ替えていったりする。まあ、アクロバティックといえばアクロバティックだけど、どうだ、という派手さとは無縁で、ちょっと一生懸命やっていますという雰囲気がほのぼのとしている。多分、プレーンな体の動きが組み合わさって波及してゆく様子を見せたい、というそれだけなんじゃないかと思う。ふんどし一丁で、むきむきでもない裸身を見せるというのも、ある種、周到に選択された素の身体の提示方法なのかもしれない。なにせ、そんなに衝撃的というわけでもないので、勇んで見に行くようなものでもない気もするのだけど、忘れた頃にまた見てみたい。

チェルフィッチュについては、さらに微妙な考慮と考察が必要だ。Dance with Humor と言うべきか Dance through Humor と言うべきか Dance along Humor とでも言うべきか・・・。

*1:論述的な調子ではうまくかけないなあ、と考えあぐねていたのだけど、ソンタグのキャンプ論みたいな調子で書き始めていたら、最後まで書けた。でも、強気な気分だけで書いているので、いろいろ勇み足もあったなあと後から反省

*2:in-relation と by-relation の区別については野矢茂樹『哲学航海日誌』p.237参照

*3:近くの観客が「現代舞踊協会」っぽい、と評していた。古典的なモダンダンスの旧態以前たる理念に収まっているという評言として、首肯できた。

*4:コメディア・デラルテとか。まあ山口昌男の『道化の民俗学』あたりは読み逃せない文献ってところか。

*5:なんで笑いなら商売になるって考えたのだろう。商業的場面でないと、笑いは結局飼いならされてしまう、と考えていたわけだけど、笑いじゃなければ、飼いならされる危険は薄いというわけでもないだろうし。このあたりの問題について、ちょっといろいろ考えている今日この頃

*6:この点についてはベルクソンの『笑い』で語られた「生に張り付いた機械的なものは滑稽である」というテーゼは、全く妥当性を失っていない。っていうか、Humor by Danceというのは、コミックショーとしてはあまりに古典的すぎるのだ

*7:こういうビッグネームを出してシーンの磁場を描こうとする書き方って、結局細かい流れをフォローしてないからできる大雑把な認識ってことなんだろうなあと反省。影響関係が無いわけないけど、それを細かな系譜において捉えられなければ……

*8:そのへん、「コンドルズ」なんかと大違いだ。このフェスティバルの関連記事が8/25の朝日新聞27面(12版)に載っていたけれど(記者は長友佐波子)ダンスにおけるユーモアの先駆者はコンドルズ、なんて言ってコンドルズの紹介記事に落ち着いていた。トップランナーにも出てたし、なんか、プロモーション盛んですね

*9:チェルフィッチュの岡田さんがテレタビーズになぞらえていたけど、それもわからなくはない