ニブロール『NOTES』についての注釈

ニブロール『NOTES』、8/21昼の公演を見た。
http://www.nibroll.com/news/notes-detail.htm

『日の丸ノート』演劇公演『ノート(裏)』ダンス公演『NO-TO』の三作品をベースに再構成した「最終バージョン」だそうだ。

都内で上演された「ノート」シリーズは三作とも見ていたので、使いまわされていた映像には注視をせずに、ダンスばかり見ている時間が多かった。

振付の精度、密度は、本当に驚くべきもので、息をのむようなすばらしい造形が、舞台の隅っこで無造作に投げ出されていたりする。くっついたり離れたりする幾つかの動きの群れが、それぞればらばらに細かなモチーフを凝縮し、発散していたかと思うと、それが再び思わぬしかたで合流するのだが、その一連の動きそれぞれが同時平行的に展開する流れとして自律している。どこをとっても緻密に作られている。それらが、無造作のようでいて、絡み合う動きの軌跡もまた、絶妙な造形性を湛えている。

たとえば、すばやく舞台を駆け回っているグループがあるかとおもうと、ゆっくりと床を転がっているダンサーもいる(こういう構成は、『駐車禁止』にも見られたものではあるが)。その、ゆっくりと動いているダンサーが、ゆったりと起き上がって徐々に加速し、駆け巡り始める瞬間などは、転がってゆく動きの中でためられた動機が別の運動へと変容してゆくという出来事が生々しく発露してゆく、その姿をそのままに造形しているかのようで、きわめて美しい瞬間だった。

ニブロールを語るのに、「キレル身体」とか、動きの衝動的なあり方が注目される事が多いわけだけど、それは、一面に過ぎない。一見そういう動きの派手さが目立つだけの話で、矢内原美邦は、むしろあらゆる種類の運動を作品のなかに取り込もうとしているだけのことなのではないかと思う。

確かに、身体運動が型通りの、決まりきったものになってしまうことを避けるために、ダンサーからテクニックを奪って、乱暴にでも身体を生々しい状態に投げ込む、というような志向も、ニブロールの振付手法の重要な一面ではあっただろう。しかし、慣れ親しんだ場所から、そうでない状況に投げ出された身体から発せられる軋みのようなものだけを見せることが、ニブロールの作品の目的ではなかっただろう。そのようにして生まれた身体の質感は、作品に欠かせない要素として、舞台全体の構成の中に緻密に位置づけられるべきものとしてあったはずだ。

身体の質感を探求することと、それを緻密に構成された運動へともたらすこと。絵画における色彩と造形性になぞらえることもできるだろう。ある種の画家が、生き生きとした色彩感を求めつつ、それをしっかりとしたデッサン力のなかにまとめあげるように、矢内原美邦の振付は、生き生きとした身体の質感を、緻密な運動の造形のなかに定着しようとしている。

おそらく、それまでニブロールを認めなかったダンス批評家の諸氏が、『コーヒー』を見て絶賛したのは、それまで身体の乱暴なマチエールに目を奪われて、拒絶反応を起こしていた彼等が、矢内原美邦の振付にある緻密な造形性にはじめて気がついたからだったのではないかと思う。

画家がデッサン力を磨くために石膏デッサンを繰り返すような修練を、矢内原美邦も積んできたはずなのだ。彼女の学生時代の作品のビデオを、世田谷パブリックシアターで行われたセミナーで見たことがあるけれど、それは見事なまでに均整のとれた美しいものだった。将来、矢内原美邦の「新古典主義」的展開があっても私は驚かないし、むしろ歓迎するかもしれない。

矢内原美邦振付家としての圧倒的な優位は、当分ゆるがないだろう。問題は、映像や音楽とも組み合わされた舞台芸術全体として、グループとしてのニブロールの作品はどうなのか、という点にある。

今回の作品に関して言うと、映像とダンスとはまったく交わることの無い独立した領域でそれぞれ展開していたように思う。

『駐車禁止』などでは、映像が明確なテーマ(時間の経過と堆積、そして埋められてゆく死体)を提示し、それがどこまでも現在である舞台との緊張関係を持っていた。また、ダンサーの体に映像を投影するという試みもあった。

『コーヒー』の場合、映像の側で進行する物語的な展開が主題的な一貫性を示したり、ビデオゲームのような映像が舞台の背景として幻惑的な効果を発揮したりしていた。

今回の上演では、映像は暖簾のように幾つかの断片にわけられた二面の布(中心から上手側にずれた正面に一枚あり、それにつなげるようにして、下手側に斜めにつられている)に上映されたのだけれど、上半分がスクリーン、下半分が上演スペースという風にまったく分断されてしまっていた。

もちろん、映像とダンスが平行して展開するという作品構成があっても良いわけだけど、映像作品も、過去のさまざまな作品の断片の恣意的な羅列としか見えず、主題的な求心性は無かった。

『ノート』シリーズのそこにあるコンセプトとして、書き留めた事が事実との間に生み出してしまう乖離、事実が逃れてゆく、その隙間にあらわれる捕らえがたいもの、というようなテーマがあったようだ。

こういうテーマが、ある種イメージの源として、さまざまな映像や運動の出発点として据えられて、そこから湧き出してきたものを映像やダンス、音楽、衣装、それぞれの分野で作り上げてゆき、それを舞台としてまとめ上げる、というのが、ニブロールの舞台作品のつくり方らしい。

『林ん家へ行こう』『東京第一市営プール』『駐車禁止』の都市論三部作にくらべると、パークタワーのダンスフェスティバルで初演された近作三本はニブロールの方法論が『コーヒー』で集大成されたあと、その先に踏み出せてないという印象だ。

今の作り方を続けていると、出発点となるテーマを様々に設定しながらも、そこから先のルートのたどり方は、相変わらず、ということになりかねないな、と思う。

狭い知人のグループから始まったニブロールだが、互いのことをよくわかった上ではじめて可能な集団創作の方法も、すでに通用しなくなり始めているのではないか。
『NO-TO』初演での、アメリカのダンスグループとの「コラボレーション」が、コラボレーションとして成立する以前に、意思疎通の失敗で終わってしまっていたことが、今回の公演のあとに開かれたアフタートークでも語られていた。これは、兆候的だと思う。自分たちの方法論について、仲間内ではやりくりできても、それを原理的に提示することはできない、というニブロールのグループとしての現状は、今後大きな弱点になりかねないだろう。

彼らは、ジャンル横断的であることを標榜しながら、それぞれのジャンルの成り立ちについては案外無頓着であったりするのではないかという気もする。そのあたり、基礎を振り返る作業がニブロールには欠かせないのだろうと思う。そこがおろそかになれば、ニブロールの活動も停滞し、失速してゆくかもしれない。

私個人としては、矢内原美邦振付家に専念することで、一番成功すると思うし、そのためには、既存のダンス界の内側で自分の活動の場所を維持し、既存のダンス界の権威を内側から解体再構築するような仕事をするべきだと思う。

あ、ニブロールの人たちの演劇的センスの悪さについて書こうとして忘れていた。補遺的な文章を改めて書いておきたい。