フランスのサイレント映画と活弁
澤登翠の活弁つきで、V・ジャッセの『ジゴマ』とフイヤードの『ファントマ』をみる。
ジゴマというのは、日本でも禁止令が出るほどブームになった作品らしく、犯罪者と探偵が追いつ追われつするたわいない娯楽映画と言っても良いもの。「ルパン三世」の原型といえばわかりやすいか。だけど、講演での話によると江戸川乱歩や萩原朔太郎はじめ文学者に与えた影響も大きかったらしい。
ある種の鬱屈というのは、シンポジウムを聞いているときにも始まっていて、寄り道だらけの閑談に少々辟易していたということもある。だれもが『悲劇の死』のスタイナーのように、豊富な知識を見事な洞察と流麗なレトリックで纏め上げて語れるわけではないことは当然だし、自分自身の文章なり話なりもそれほどのものではないこともわかっている。そのことがまた、うんざりとした気分を掻き立てる。
活弁つきの『ジゴマ』を見ながら、胸の奥に重苦しい思いが溜まってしまうのをどうしようもなく、これは一体なんだろうかと考えていた。サイレント映画の脈絡の無い断片的な映像の積み重ねが原因だろうか。私が見たバージョンの『ジゴマ』は、シリーズもののエピソードをダイジェスト的にまとめたものということだったが、アルプスが舞台だったかと思えば次は湖が舞台といった調子なのだった。
映像だけなら、退屈な思いをしてもそれをやり過ごしながら、フィルムの質感や構図、写されたものの委曲などに注意を分散させて、映像体験に浸るということはできる。
しかし、今回は、状況の変化に応じて単調に繰り返される音楽とわざと大時代的に続く活弁のある種完成された調子とが、映像を映像として注視することを妨げ、貴重な映像であると頭ではわかっていても、いささか陳腐な劇映画の退屈さを変に強調する結果となったらしい。
澤登翠さんの活弁は、昔、溝口健二の「滝の白糸」上映の機会に聞いたことがある。そのときは声色の使い分けを楽しんだものだった。今でも、話芸として見事なものだという認識は変わらない。
それでも、映像に対する解釈を固定しようとする活弁が、映像そのものの質を享受したい時には疎ましく思える場合があるのも確かだというわけか。
いや、活弁における演技の巧みさがある種の人工的平板さのような質感を持っている面もあり、それが今回に関しては否定的な反応を私の内に引き起こしたということらしい。
一緒に見た知人は澤登翠のファンだったりして、そのことを語ることができなかったもの、更に鬱屈を深める結果となってしまったらしい。
そういう鬱屈に自己嫌悪の感情などが混ざり始めると、もういけないのだ。
ところで、フイヤードの映画はエドワード・ゴーリーが賞賛していて、深く影響を受けたと語っていたので興味があって見てみたのだった。
ゴーリーが見たのはどんな作品で、彼はどこにどんな魅力を感じていたのだろうか、と、脳裏に残る映像の記憶を思い返しながら考えている。
ニ作品を通じて、ロケ撮影とセットでの撮影とが混在しているのだが、ロケでは非常に自然な演技がなされているのに、セットになると妙に芝居がかった調子になるのが面白かった。映画が演劇から自立しはじめる境目の、過渡的な状況ということなのかもしれない。
フイヤード作品の、電車のなかでのロケの画面など、すでに今の映像技法と変わらない新鮮さを持っていて、印象深かった。