近文研公演「龍潭譚(りゅうたんだん)」

近文研の公演、招待いただいたので月曜日に見てきた。その話を書いてから出かけようと思う。

近文研のサイト。
http://homepage2.nifty.com/robingoodfellow/
泉鏡花のテクストを元に自由に構成した舞台。
テクストを読まずに見たこともあり、テクスト自体の物語的展開を明示しない仕方で舞台が進んだので、三人の女優が戯れあったり誘惑したり、支配したりするような関係のあり方が、テクストとどう関わるのかはまったく考えが及ばなかった。

薄めの襦袢を身につけた三人の女優が情念にかられて朦朧となって戯れてみるというような印象だけが残る。

このグループの作品は何度もみているのだけど、台詞を音響に崩していってしまったり、歌の要素を持ち込んだり、おなじみの手法だった。

演劇を、イメージの造形として捉えるといった感じのこのグループの姿勢(なんてまとめ方をされたら違うといわれるかもしれないけれど)には、好感を持ってきた。(小劇場的な因習の模倣とかではなく、手法に自覚的であるという点で。)
それに、低料金で地道に活動を継続しているのも、良いと思っている。

authenticityが無いな、ということばかり考えながらみていた。
真正性と言ったらいいのか。(英語の語感を漠然としか捉えていないのかもしれないけど、日本語ではうまく言えない感じ)

authenticityということで考えるのは、例えば、クラシック音楽だとかクラシックバレエのような、訓練と技術と芸術的評価が既にしっかりと成立している分野のことだ。そこでは、正規の訓練を経ない演奏家の演奏は、まがいものだ、という判断が自然と共有される。

演劇で考えると、少なくとも日本に於いては、演技術というものが確立されている、とは言えないのだから、既存の演技の模倣をしているたいていの演技というものはまがいものだといっても、そんなに間違ってはいないとおもう。

だから、演技の方法論が新に模索されなければならない。(例えばチェルフィッチュだ)

authenticiticでないものというのは、キッチュということになるのかな。

近文研の公演にauthenticityを感じない、ということは、どういうことなんだろうか。前には「趣味的なところがある」とか「装飾的に堕してしまっている」という言い方で、同じことを言おうとしたことがある。

アバンギャルドというのは、新にauthenticityを生み出そうとする試みのことでもあるのだろうけど、そこで、既存の方法論や価値観を否定するとして、何を肯定するのか、が問題だ、ということになるだろうか。

近文研の場合、方法論としては伝統から切れているけど、発想や趣味、価値観といった面においては、よりauthenticicなもののパロディになっているような気がする。

模造であることを積極的に肯定する、という域にまでは達していなくて、センスが良いというか、ある種のちんまりとした洗練に留まっている感じがしてしまう。