時々自動のLightology-2

を昨日見に行った。

ライトロジーの初演のチラシには、僕が某美術雑誌に書いた文章が推薦コメントとして掲載されていたのだけれど、初演を見て、不正確な文章だったな、と痛感させられたのだった。

http://groups.yahoo.co.jp/group/euterpe-ts/message/288

それ以来、時々自動というグループについて書かないままの日々を続けてしまった。

今回のライトロジー2を見て、初演の感想も思い出しながら、時々自動をどう評価するのが正しいのだろうか、という事を考えていた。

初演も、オムニバス的に複数の作品が同時進行するような構成だったのだけど、今度のコンパクトバージョンは、作品が統合されない感じがさらに強まっていて、時々自動の様々な作品要素のダイジェストといった風だった。

ここ10年ばかり、時々自動のだいたいの作品を見てきた僕にとっては、目新しい要素はない。むしろ、要素と要素がどのように配合されているのかに注意が向かう。

「RA3」でも使われていた、薄い金属板にぶつかってゆくパフォーマンスは、それで音が発せられるということと、その物質的抵抗を突き抜けようとする身振りの提示がなされるということが一体となっていて、見事な舞台表象を造形していると思う。

RA3の時には、一気に駆け抜けるスピードが作品全体のテンションとして見事に結実していったのだが、今回は、それが散漫なままに終わってしまった印象が残った。

関係を持った女子学生に投身自殺されてしまう美大教授のモノローグとその教授の内面のイメージを模型と人形による映像で展開するパートが、激しい身体パフォーマンスと切り結ぶ場面が開かれなければならないはずなのだけど、なにかかみ合っていない印象。

パフォーマーがステージ上に設置された高い部分から後ろへ飛び降りると、アイコン化されたアニメで、ビルから落下する人物のイメージが展開される。
初演では、あらかじめ始まっていたデジタル表示のカウントダウンが、後から死の瞬間を示すものだとわかるという仕掛けがあって、死のカウントダウンが畳み掛けられて行ったのだったが、今回はそのカウントダウンはなかった。

今回もパフォーマーの飛び降りと、ビルから落ちる人物のアニメは繰り返されたが
それは、暗転で地面に届く前に終わった。

ラストシーン、地面に向かうアイコン化された人物の像が、地上で反転して、空に向かう。空に同様の人物が飛び交い、それぞれが淡い光となる。

初演では、集まった光が、電灯を映したビデオ映像にスイッチして終わりだったが、今回は、未来へと西暦の年号が上にスクロールしていく映像にオーバーラップしてゆくという処理だった。

死のカウントダウンが無かったことともあわせて、ラストの映像の印象はだいぶ淡いものになったような気がする。死後の魂を連想させる映像を、この世的なもの、ありふれたものへと重ね合わせてゆくという意図があったのだと思うけれど、現世的な時間の進行へと重ねてゆく方が、よりドライで良いかもしれない。

ライトロジー2のことについては、今は書ききれないのだが、一つおもったのは、時々自動独特のアマチュア主義みたいなものと、作品構成を統合しない方向にあえて放置するような舞台の発想とがうまく結びつくポイントを見出すということが、時々自動評価の上では重要なのではないか、と思った。
そうしないと、「不徹底」「中途半端」という批判には答えられないと思う。

もしかすると、ある種のだらしなさを、積極的に評価すべきなのかもしれない。
だとしても、だらしなさを徹底しない統合への志向が時々自動の作品にはある。
それを、単なる折衷や中途半端としないような評価の軸はありえるのか。

と、ここまで書いて
http://www.fmic.net/Kino_Balazs/KB_upcoming.htm
に向かおうと思う。

さて、
先日、『シアターカオス』という、西堂行人氏がはじめた演劇批評誌を見ていたら、歌人の杉山美紀さんがライトロジーについて書いている文章を発見して思わず買ってしまった。ボランティアパフォーマーとして参加していたのだそうだ。
それを読んで、『ゴドーを待ちながら』のラッキーのセリフが引用されていたのをはじめて知る。不覚。
http://www.storehouse.ne.jp/cafe/index2.html

それから、時々自動主宰の朝比奈氏へのインタビューがあった。
http://homepage2.nifty.com/monami-s/interview2.htm