演劇集団風の『肝っ玉おっ母とその子供たち』

昨日、藤田省三追悼公演ということで、見に行った。
http://groups.yahoo.co.jp/group/euterpe-ts/message/286
に、そのあたりの事情を投稿していたのだけど、予想通りに、新劇の様式のなかに収まってしまっている舞台だった。

ブッシュとか、ジハードとかという言葉を挿入しながら、現状を風刺してみせようとする姿勢も、短絡的なものでしかなく、現状に対する批判的な喚起力はほとんどない。

演出の基本姿勢の不徹底さは、例えば、重いものを運ぶ様子の演出などに顕著だ。重いものを運ぶとき、そんな姿勢は取らないだろう、というような、しかし、重いものを運んでいる様子を誇張して描くような身振りを役者にさせている。たとえば、重い金庫を運ぶときに、カエルみたいに腰を落として動かせる。重さの誇張を様式化して示すにしても、ただの大げさになってしまっては、重さを示すことにはならないと思う。

終幕で、「肝っ玉おっ母」が行軍を追いかける場面で雪を降らせてしまうというのも、あまりに叙情的。ブレヒトの「叙事的演劇」の理念がどんなものだったかは僕はちゃんとした認識を持ってはいないのでしっかりした批判はできないけれど、それでもブレヒトの理念にそぐわない、単なる感傷的なドラマに堕してしまいかねない演出には違いない。

イヴェット(娼婦)役の女優は、時々なんだか青木さやかみたいだった。そんな風に見えたのは、きっと演技の様式の問題、というよりも、演技のイメージの問題なんだろう。芸人のいかにもありそうな「演技のイメージ」の誇張とほとんど変わらないような質の演技に陥ってしまったということは、演技の質についての無反省さを露呈していたように思う。

張りぼてそのもの鎧や石なんかもいただけないし、全体に鋭さに欠ける照明もいまひとつ。荷車だけは、なかなか良いものだった。

この戯曲を舞台で見るのは初めてだったのだけど、上のような欠点はともかくとして、見る甲斐はあったな、と思う。3景で、美しく着飾りたくてイヴェットが残していった帽子をかぶったりしたカトリンが、戦況の一転のあと、母親に灰を塗りたくられるという流れの強い対照は、戯曲を読んでいるだけでは気が付かなかった。

ブレヒトの演劇理念がどんなものだったのかを考えることの難しさを感じることができたのも、収穫ではあった。

終演後、ブレヒトの詩をBGMにあわせて役者さんたちが声をあわせて朗読するのだけど、卒業式でよくある集団パフォーマンスみたいなのだ。こういう集団性の表象というのがまったく陳腐であって、有効でないことになぜ気付かないのか。どういう盲目性なんだろうか、と思う。各地の小学校にまで浸透していった新劇経由の演劇の理念というのがあったはずで、そういうものの不毛さがしっかり批判されてこなかった事情は、何だったのか解きほぐす余地はまるごと残されたままなんだろうな。

そんな「全体主義的」と言ってさしつかえないかもしれないパフォーマンスが追悼の儀式としてなされてしまったことについて、いろいろと考えてしまった。どんな思想家からも、学ばないで済ませることはできてしまうということなんだろうか。そういって済まされてしまうことなんだろうか。

藤田省三の晩年について、ある種突き放した仕方で語った『UP』四月号の松浦寿輝の論考についても、半分は同意しなければならないなあと思いながら帰ったのだけど、ああいう語り方ではきちんとした批判にはならないはずで、と、うろ覚えで書いてしまっている。書く前に松浦氏の論旨を確認しようとおもったのだけど、手元にみつからない。