青年団リンク・地点公演 - 『ある夏の一日』

 近頃ヨーロッパで評価の高いという劇作家(といっていいのか)ヨン・フォッセの作品を『三人姉妹』の上演も記憶に新しい気鋭の若手演出家、三浦基氏が演出するということで、前から楽しみにしていた公演だった。
『眠れ良い子よ』と『ある夏の一日』をあわせて上演するプログラムだけ見に行った(太田省吾の『だれか、来る』と三浦氏の『名前』も同じ週末にやってたのだけど、スケジュール詰めすぎです。もったいないはなし。)
『眠れ良い子よ』は、あまりピンと来なかったので、特に書くべき感想もないのだが(もっと演出の工程が加わっていないテキストリーディングだったほうが、テクスト自体の性格は鮮明に浮かび上がったかもしれないとも思う。)『ある夏の一日』の上演には、とても惹き付けられた。

 若いころ、町からフィヨルドの近くの家に引っ越してしばらくの頃、フィヨルドにボートで漕ぎだした夫が帰ってこなかった夏の一日を回想する女性、という芝居。

 舞台には、金網が上下左右に張られたちょっと横長の立方体といった風な構造があり、その奥は木の板を横に張り合わせた壁になっており、両側に縦長の出入口がある。部屋のようでもあるその構造物が、アゴラ劇場の舞台空間のほとんどを占めている。ベンチや肘掛け椅子のような、木で作られた、しかし斜めに傾いでいびつな椅子がいくつか、その部屋の壁際におかれている。

 女性二人の室内の会話から舞台は始まる。主人公の中年の女とその友人らしい。主人公の回想が、ときにはモノローグで語られ、あるいは語られる場面が回想シーンのように若手の俳優たちによって演じられてゆく。

 三浦演出では、しばしば、言葉の発声が、ある種流れを分断されたようにして、断片の人工的な組み合わせのような仕方で成されているわけだけど、その特異な発声の仕方が、言葉を発することの物理的側面を際だたせ、物質的な塊のように音を響かせるようなところがある。その響きの肌理をとどるうちに、言葉の意味あいやイメージも、舞台の光景と平行して立ち上がってくるような印象があった。

 前半、若い夫婦の対話のなかで、フィヨルドの深い水の上に居る方がむしろ家で暮らすよりも安全であるように思う、と夫が語るくだりがある。海が怖ろしく、夫が海に出ようとすることに言い知れない不安を覚える主人公の女が、夫とのすれ違いを感じるという一節なのだが、演じられている日常の場面と対比された底知れない垂直の深みのイメージが、その後の場面の展開に結び合い、僕の中で膨らんでゆくきっかけになったのは、舞台装置の仕掛けに気付いた時だった。

 途中、夫を紹介してくれた女の友人の来訪を待ちながら、夫が居ない方が友人と合うのに都合が良いかもしれないという思いと、夫の危機に対する予感の間に板挟みにされ、そしてもはや取り返しがつかないかもしれない、という思いに苛まれるくだりの後で、板壁の出入口が勢い良く閉じられる場面がある。ドアとして造作されているわけではなく、閉じてしまうと一枚の壁のようになる。というよりも、むしろ、板張りの床のように見える。そのとき、舞台セットそのものが、横倒しにされて床をのぞき込むようにして見られたひとつの部屋のイメージになっている事に気がついた。
 横倒しになった四つの壁は金網でこしらえられていて、金網のベッドのように下手側に開いた部分は、横倒しのドアのようにも見える。そして、金網が四角く切り取られ、黒いカーペット状の素材に覆われた舞台の床が露出した部分が窓に見立てられていたのは、部屋全体の位置の転換のなかに位置付くのかと了解されてきた。

 床をのぞき込むようにして、窓を見る様子が演じられて行くのだが、その窓から、フィヨルドに夫が漕ぎ出していく様子が見守られたのであり、その窓から、夕闇のなかで、帰りの遅い夫が居るはずの荒れた海の光景が広がっていたことになる。
 打ち寄せる波の音が響いてくる暗闇に広がる海を、寒風にもかまわずに開けはなった窓から見続けようとする女の、金網の中に黒く切り取られた床面に見立てられた漆黒の窓を見おろす垂直のイメージは、底知れないフィヨルドの透き通った深淵のイメージと重なり合い、舞台に提示される光景と、テキストが喚起する情景が、転倒したセットのなかで重なり合う。黒い床を突き抜けた垂直の方向に、水平方向の深淵のイメージが走り始める。舞台セットが転倒した部屋だとすると、水平に舞台奥を見ている視線は、日常の室内場面の底にどこまでものびてゆき、四つの金網の転倒した壁が切り取る直線は、奈落の消失点へとつながって行く。「転倒した床」に再び開かれた出入口は、長方形のまま暗闇へと開かれ、そのまま底知れない淵をのぞき込んでいるような印象を残した。

 転倒したセットのなかに交錯する二つの軸が喚起する深淵のイメージがフィヨルドの深淵と重なる地点で、舞台の黒にある種の幻惑を覚えながら、僕はデューラーの一枚の銅版画のことを思い出していた。馬にまたがった騎士を真横から捉えた図柄のもので、馬の足元に、犬だったか、一匹の動物が馬と同じ方向に駆け出そうと身を踊らせている様子が描かれている。交錯する馬の足と騎士の足、そして駆け出す足元の生き物の姿が、平面的な図柄のなかにどこか不整合な感じを与える奇妙な立体感を生んでいて、それが、運動が生起する瞬間を永遠に閉じこめたような静謐な感じを醸し出している。
 10年ばかり前に東京ステーションギャラリーで魅惑されたその版画の印象を想起させるような感覚のなかで、暗闇にくだける波の音に引きつけられてゆく主人公のあり方を語った、現在形で過去を語る奇妙なモノローグを聞いていた。鉱物質の抒情とでもいうか。そのあたりで、テクストが掘りだそうとするものを、この演出は確かに舞台化できているのだろう、と思った。

 フィヨルドに探索のライトが交差し、それが一点に集まる光景が語られたあと、場面は回想がはじまった冒頭の場面の、現在に戻る。そこで、回想された一日を想起させるような今日の状況が描かれ、夫を出迎える友人が部屋を後にして一人残された主人公は、微笑みながら舞台の床に開かれた転倒した壁の窓を見おろして、暗転。
 能の『井筒』のクライマックスで、亡き夫の扮装をしながら、井戸の水面に映る姿をのぞき込むという場面を思わせる演出だった。

 というわけで、すっかり舞台に幻惑されてしまったので、いろいろあるだろう欠点などはどうでも良くなってしまったのだけど、『三人姉妹』に比べれば、作り込みが甘いようにも思ったし、回想場面に回想の語り手がまぎれこんでゆくという演出も、今一つ曖昧なままで効果を挙げていなかったようにも思う。若手の演技の質と、回想する主人公を演じた女優(大崎由利子)の演技の質の落差が気になる所もあった。新作を三作同時上演するなんて暴挙に出れば、それぞれの作りが荒くなるのは当然だろうな、という所。しかし、この創作意欲が性急に重ねる模索の先には、更に円熟した作品を期待できるに違いない。20年後、30年後に三浦氏が今日の作品を再演する場に立ち会えたとしたら、それはとても幸せな事だろう、と思った。

(初出「些末事研究」/再掲2010年3月10日)