シベリア少女鉄道の『ウォッチミー・イフ・ユー・キャン』

シベリア少女鉄道がなにかと話題だったので、見に行ってみた。
毎回、いろいろ手法を変えてるみたいだけど、今回はこんな作品だった。

前半・戦後の混乱もおちついたころの昭和30年代中ごろの東京を舞台にした、メロドラマ的ホームドラマが展開する。
(日本映画全盛期の50年代の、それも小津とか成瀬とかほど有名ではないような、でも手堅い映画をイメージすればいい。)

後半・前半のドラマが、引き続く。でも、『ダンスダンスレボリューション』になっている。

どういうことかというと、ダンスのステップを矢印の方向で指示して、その方向にある床の足踏みボタンをタイミングにあわせて踏むっていうダンスゲームの形式を借りて、客席を囲む四方に四つあるステージのそれぞれで同時進行するドラマを、モニター画面に表示される矢印にあわせて首を回してタイミング良く見るべし、という枠組みを設定した演劇作品になっている。(うーん。これで全て言語化できただろうか。)

ディスコアレンジされたJ-Pop(って範疇に入る程度には古い曲もまじる)が大音量でかかって、劇場全体はミラーボールやムービングライト(バリライト)でショーアップされて、役者もみんなマイクを使って台詞を言うのだった。それで、劇場に多数配置されたモニター画面には、ダンスゲームを見事に「シミュレート」した、この作品のためのオリジナルクリップ(?)が流されるのだった。

まあ、作品が示唆する「ルール」を守らずに、モニターやスクリーンだけ見ていても良いし、ステージを見ていても良いし、指示に従って頭を右往左往させている客の様子を観察しても良いわけだ。

ともかく、ダンスゲームをシミュレートした画像と、四つのステージで同時進行するドラマとが、きちんとシンクロして、それで、四つのステージ(それぞれ別の場所を固定セットであらわしている)をきちんと使い分けるだけの物語を破綻無く進行させることができるってだけで、作家的力量はかなりのレベルにあると言える(この手の才能は、アメリカだったら、もっと儲かる方向に投資されるような気もしますが。)
それに、あっちに行ったりこっちに行ったりと段取りが多い作品をとちらずにこなした役者さんたちも「がんばった!」というところだ。

まあでも、「それでどうした?」って感じもするのだ。

ドラマの内容ははじめから陳腐なものを狙っているのだから、まあ、文句をつけるまでも無いとして、問題は、見る快楽の質がどのように達成され得たのか、という点にあるかもしれない。この作品が提供できる快楽は、熱狂的なファンを生んだ、元ネタのダンスゲームの快楽には、はるかに及ばないものだったことはまず、まちがいない。
音とタイミングと身体運動をあわせるところの快楽は、難しいステップをこなす時の、ハマッタ感覚だと思うのだけど、指示ぴったりに激しく首を動かしても、視覚的なスイッチは追いつかないと思う(視覚的認知って処理に時間がかかるのだ。)
そして、絡み合った筋が高速にコマつなぎされる所で、タイミング良くそれぞれの場面を見ても、アクションや台詞のタイミングが微妙にずれていたりして、はまっていない。

まあでも、そういう無理ははじめから承知の上でこの作品は作られているとしたら、そこに「欠陥がある」と指摘するのはお門違いということになるだろう。むしろ、役者の演技もドラマの物語的内容も、全て「演劇をダンスダンスレボリューション化する」という無茶な課題の中に巻き込まれてしまう、というただそのことの馬鹿馬鹿しさに実際に立ち会うことに、この作品の意義があるのかもしれない。

登場人物達が理不尽にもゲームの世界を生きなければならなくなるなんて展開は(実際、登場人物たちは、作品の枠組みが急に妙なものになってしまったことを間接的に嘆いてみせたりもする)、イヨネスコの作品とかに通じるような不条理と言えるのかもしれない、なんて帰りの道で考えたりした。

まあ、現代社会の日常ドラマが、この作品に負けず劣らず「わけのわからないルールに巻き込まれること」によって成り立っているとしたら、この作品を笑えない、ってことかもしれない。いや、そんな風に「いかにも」な結論でお茶を濁してしまっては、この作品を救ったことにはならないだろうけども。

(初出「些末事研究」/再掲2010年3月10日・一部書き換えた)