素人が舞台に立つこと ―「モーゼル銃調査団」と「n-1」

HM/Wフェスティバルのモーゼル銃調査団とn-1を見る。どちらも素人による作品だったが、モーゼル銃調査団の方がましに見えたのは、演出家がプロだったからだろう、という話。

モーゼル銃調査団」は、黒テントの演出家である佐藤信氏が学生と一緒にこのフェスティバルに参加している団体というわけだが、どうも実質的には課外実習というべきものだったようだ。そこに佐藤氏なりのフェスティバルへのスタンスなり、教育的意図なりがあったのかもしれないが。

舞台は、下手の壁に大学の部室みたいにロックバンドのポスターなどが貼られていて、その前に椅子が並べられ、テーブルがある。テーブルにも漫画や本などが積み上げられていて、マイクと電子式のOHPが設置されている。反対の上手の壁にスクリーンが設置されていて、背景となる絵を映したり、花を映したりする。その中間に、ほぼ正方形の演技スペースがある。

公演は、ミュラーの『モーゼル』を下敷きにした物語が、いくつかの断片的な場面に分割されて、上演されるというもの。モーゼルは、革命党の命令で銃殺を指揮する男の話なのだが、それを、水戸黄門御一行になぞらえた正義の集団に加わる磯野カツオ、なんて風に、おなじみのテレビ番組の登場人物を使って「ミュラーを知らない日本の若者にもなじみやすく」している。

演技の様式というか演技の質は、いまどきの若者ならいかにもやりそうなお笑いのコント風の下手なものなんだけど・・・

アフタートークで出演した大学生たちの話を聞いていると「前衛っぽくゆっくり動いてみたりとか、小難しい作品には腹が立つので、僕たちはポップなことがやりたかったんだ、ミュラーとかブレヒトとか正直全然関係ないし、先生にやってみろっていわれたから参加したんだけど」みたいな話で。それで、エチュード(即興的寸劇)からくみ上げて行ったんだとか。

舞台全体を「学生の内輪的な上演」という設定にしている枠の組み方とか、ステージのデザインは佐藤信のアイデアだったそうだ。おそらく、全体の構成にも佐藤信の「指導」がかなりゆきわたっていたに違いない。

その点で、やってる側としては、ただ盲目的にやりたいお芝居をしているだけなのだが、全体としては「いまどきの若者の演劇」を様式的に活用したメタ演劇的作品、といった仕方できちんと成立している。これは、演出家がしっかりしているからこそ、可能だったことなんだろう。

それにひきかえ「n-1」の作品は、本当に出演者も演出家もこぞって素人だったんだろうな、と感じさせるできばえ。

素人が舞台に立ってプロの役者に出来ないことをするとしたら、「演技」しようとしたり「表現」しようとするのではなく、素人の日常の動きなり、コントロール不能な身体的ブレを素材として舞台作品をくみ上げなければならないのだろう。そこに、素材を活用する演出家の手腕が問われもするのだろう。

それが、演出する側(あるいは、共同演出、ということだったかもしれないが)もまた素人だったのがいけなかったのだろう。


何より見ていて苦痛だったのは、生齧りの素人的な演技やダンス、発声パフォーマンスなどが、いかにも「私たち表現しています」といった自意識を発散させるもののように見えたことだ。なんというか、社員旅行の余興や、結婚式の余興で見せられるような寸劇や日舞の類を思い浮かべていただければ、パフォーマンスの質も見えてこようというもの。舞台構成全体は、下手な学生演劇の類を考えてもらえば大差ないだろう。
演劇的な常套手段を覆そうとするようなアイデアのつもりと思われるような様々な仕掛けが、結局は既存の演劇的様式のパターンをなぞっているだけであり、演劇的実験としては出尽くしているものを繰り返しているだけに過ぎないという不毛さも、素人にありがちなものと思われた。

彼らが、蛮勇を奮って舞台経験を重ねて行った果てには、何か面白いものが出てくるのかもしれないけれど、それは、もっと先の話だろう。

(初出「些末事研究」/再掲2010年3月10日)