笛田宇一郎演出『激しく待ち焦がれながら/悪こそは未来』への賛辞


笛田宇一郎事務所のHM/Wフェスティバル参加作品『激しく待ち焦がれながら/悪こそは未来』を見た後、久しぶりに誰かとこの感動を分かち合いたいという気持ちに駆られていた。ディープラッツのスタッフと話したりしているうちにしばらく居座ることになり、打ち上げの席にもちょっとおじゃますることになった。

作品タイトルの前半「激しく待ち焦がれながら」は、『ハムレットマシーン』最終景にある言葉。タイトルのようでもあり、ト書きのようでもある(不覚にもテクストを読み返すまで気付かなかった)。「悪こそは未来」は、日本語で訳された二冊目のインタビュー集のタイトルだ。
テクストとしては、『ハムレットマシーン』からのいくつかの抜粋、インタビュー集からの断片の様々な抜粋のほか、『セメント』の中の「ヒュドラテクスト」(と呼ばれるらしい、ヘラクレスの物語に依拠した挿入断片)も参照されていたそうだが、それは終演後とある熱烈なミュラーファンの方から教えて頂いた。これは、冒頭と締めくくりの独白に翻案されていたのだろう。他に、チェーホフの『三人姉妹』からの抜粋なども効果的に用いられていた。

舞台は、一見してホームレスというか、浮浪者風の男(笛田宇一郎)が「オレは森を抜けようとしていた」といった独白をする所から始まる。額には手ぬぐいのようなものを巻きつけ、白髪混じりの頭髪は、ぼさぼさで、黒いコートの裾は擦り切れている。
基本的に、独白のテクストは、ミュラーからの翻訳を踏まえつつ、笛田氏によって様々に再構成されたもののようだ。たとえば「私はハムレットだった・・・ハムレットだった男が日本でなにをしようというのか・・・」といった具合だ。

一歩一歩探るような足取りで、神楽坂ディープラッツの、あの上手奥の入り口から進み出てくる舞台には、半畳の畳のようなものが中央にあって、そこには襤褸スカートの上に小汚い服を重ね着したホームレス風の女(花佐和子)がうずくまっている。

最初の独白の場面が終わると、暗転。真珠湾攻撃を伝える英語のラジオニュースや、ナチスの党大会での演説らしい音声が流され、そのあと戦いを鼓舞するような行進曲調の音楽が流される、それにあわせて、畳の上の浮浪者風の女が起き上がり、『三人姉妹』からの抜粋を朗誦する。「やがて時が来れば、どうしてこんなことがあるのか、なんのためにこんな苦しみがあるのか、みんなわかるのよ・・・楽隊の音は、あんなに楽しそうに、力強くなっている・・・云々」線のように進歩する歴史を表象しながら過去として現在を語る断章。

その後、女は憑かれたように、名古屋近辺での空襲の情景、目の前で炎に苛まれる人の末期の言葉がその土地の言葉で語られる・・・客席をひたと見据える女優の目から目が離せなくなり、思わず居住まいを正さざるを得なくなる。

方言を交えた空襲の語りは、出演した花佐和子さん自身が名古屋近郊出身の出身であって、実体験をもとに舞台で即興的に語り続けてきたものを、今回笛田氏が脚本に起こしたものだったという(これは、後で花さんから伺って確認したことだ。両親が関西圏出身で中京地域で育った花さんの言葉は、どの地域のものでもない独特のニュアンスを帯びているものらしい。)

続く場面は、女浮浪者が振り返り、男浮浪者に気がついて声を掛ける場面だ「久しぶりだねえ、会えてうれしいよ、どこから来たね・・・」安焼酎を薦める女。飲み交わしながら男が語る言葉は、戦後日本の歴史について、学生運動が体制を強化する役割しか果たさなかったことについて、アメリカこそが原理主義的であるといえるような昨今の世界情勢について、滔々と語ってゆくが、それは左翼崩れの男が社会の最底辺に零落しながら、世間に対して毒づいている言葉のようにも聞こえる。

おそらく、この状況認識は、笛田氏の本音なのだろう。そこにミュラーのインタビューからの言葉が織り交ぜられてもいる。あまりに正しく、倫理的であるがゆえに舞台に乗せられる言葉としては生硬であるようにも聞こえるし、アジテーションとしてはいささか陳腐なのかもしれない。

しかし、それが浮浪者に身をやつした笛田氏の口から吐かれると、早稲田小劇場での活動から離れ演劇の領域においてマイナーな場所へと身をおこうとしている笛田氏自身の生涯を反映した言葉がそのまま酩酊した浮浪者の言葉として響いているようでもあり、台詞としての貧しさはその仕組みに救われているとも言える。この「演技」を単にマイノリティーを舞台に表象しているなどという水準にとどまらないものにしているのは、やはり笛田氏の俳優としての力である、ということになるのだろうか。

「どうせ誰かの言葉のパクリなんだろ」と女が言うと「ブレヒトだ」と男が返したり、「あんたは誰だい、チェ・ゲバラだろ」と女が問いかけたりするというくだりもある。引用に引用が重ねられる中での主体の動揺、自己同一性が揺らぎ置き換えられてゆく状況、それが酔っ払いの浮浪者の掛け合いとして演じられたわけだ。言葉を発するのは、日本の戦後史を生き抜き、その歴史的過程からマイナーな立場に追い込まれた者である・・・表面的には至極普通の演劇として成り立っているとも言えるが、しかし、ミュラーの言葉を日本語において響かせるのに、これ以上の仕掛けはないのではないか、とも思われた。

そのうち、酔っ払ってごろんと横になってしまう男。この、酔いつぶれる前の台詞が、ミュラーのテクストの言葉だった気がするのだが思い出せない。終演後何人かに尋ねたが誰も思い出せない。あるいは、記憶に止められないほど言葉が舞台と一体化して、過去に消えてしまったということなのか、ともかく、ここで観客が笑うこともできる・・・酔いつぶれた男に「私の心臓を食べるかい」と問いかける女・・・そこから『ハムレットマシーン』での、オフィーリアの独白が始まる。それは、『ハムレットマシーン』のテクスト朗誦で、今まで日本語で耳にした中で、もっとも説得力に溢れるものだった。
いわば、「標準語」的な貧しさを中途半端な演技様式の中で更に貧しくしたような発話ではなく、個人様式と言えるような方言の混交を、訓練された身体の上に増幅させるような朗誦法なのである。

日本語の美しさなどという、生易しくも偽善的なものが問題なのではない。貧しいほかないところに断裂された日本語であって、そしてなお美しいものでありえるのかどうか、それが問題なのだ。

「こちらはエレクトラ・・・」ではじまる末尾の断章を語り終えて、そして上手に頭を、下手に足を向けて仰向けに横たわる。浮浪者でありながら、少女のようなあどけなさをも見せるかのような・・・決して水底に沈むことはなくオフィーリア地上・・・いや舞台の床に横たえられたままのオフィーリア。目をさましたハムレットだったこともある男は、眠ったままのオフィーリアの体に手を伸ばすが、触れようとして触れない。そして、天を仰ぎ身もだえながら、世界を覆い尽くす残忍な体制を告発するかのような独白を続けて、暗転。

神楽坂ディープラッツの黒ずくめの空間に、半畳おいただけの空間だったが、照明の効果だけでシンプルな空間は、空間造形的にもきわめて硬質な美しさを湛えていた。

笛田氏の言葉の選び方や演技の、ある種の様式美を、もっと貧しいものへと零落させ、理性的なものをもっと酩酊させることができたなら、おそらくこの舞台の力はさらに底知れないものになりえたかもしれない。

笛田氏の言語感覚は、ある部分で過剰なものを呼び込みながら、やはりまだ形式的な理知を免れていないようだ。
エストラゴンであるよりはウラジミールであるかのような笛田氏に、零落した劇詩人が協力者となったなら、もっと面白い舞台がみられるだろうか、と夢想するのだが・・・

しかし、花佐和子さんという、初期の錬肉工房や田中泯の稽古にも参加しつつも、家庭生活を送った末に、最近は横浜のにゅーくりあという劇団で活動していたという特異な女優と、笛田氏が解体社のアトリエで出会ったという僥倖に触れることができたことでも、十分に幸せだと言うべきなのかもしれない。

(初出「些末事研究」/再掲2010年3月10日)