ハイナー・ミュラーの『アルトゥロ・ウイ』

東京ドイツ文化センターに、ハイナー・ミュラー演出による『アルトゥロ・ウイの興隆』(ブレヒト原作)のビデオ上映を見に行く。原作はヒトラーが権力の座について行く過程を、シカゴを舞台にしたギャングのドラマになぞらえるという戯曲で、上演もほぼ原作通り。ただし、イントロの部分がラストにまわされていて、冒頭にヒトラーのような男(マルティン・ヴトゥケ)が、四つん這いで登場し、犬のようにはい回るという場面が挿入されていたり、オペラの曲が挿入されたりもする。ドイツの政治状況の変遷との対応を示すスライドはカットされ、ヒトラーのような人物の興隆を許さないような行動が必要だ、とナレーションが入るエピローグもカットされている。

全体に、教訓を与える劇という面は弱められ、原作のパロディ的な側面を強調し、コミカルな面が強調される演出がなされていた。登場人物を紹介するイントロがラストにまわされていたことも、単に、虚構を介して歴史的事実を反省する教訓的効果とは別の働きをねらっていたのかもしれない。

演壇で直立して絶叫調にまくしたてられる本来プロローグであるテクストは、ある種、田舎芝居のはじめの下手な挨拶といった風でもあり、それに、アップライトピアノによる無声映画に対するようなラグタイム調(?)の、いささか古めかしい音楽が伴奏される。下手にピアノ、舞台上には出演者一同が並び、
ナレーターの紹介にあわせて、舞台中央に進み出て、それぞれさわりの台詞をひとくだり演じてみせたりする。

これから始まる舞台の紹介を意図したスピーチが、すでに終わった舞台の後に置かれている、このある種ねじれた時間感覚は、「祭りの前」を「祭りの後」に置くことで、その両極の感覚を限りなく増幅させつつ、ある種、ノスタルジックなものを執拗に現在化させ続けているような、そのことが、逆に現在のはかなさを強調しているような、独特な持続の印象を残した。
(この過ぎ去っていく時間をめぐるテーマは、演劇の本質にも関わる問題だろうと思う。ロラン・バルトの写真論が演劇体験に根ざしていたという指摘にも通じる、そのような問題系。)

予習として戯曲の翻訳を読んでいる時、ナチスの極悪非道ぶりへの嫌悪感を最も掻き立てられたのは裁判の場面だったのだが、そこはまるごとカットされていた。(もしかすると、これも「教訓的」性格の排除なのだろうか・・・ビデオの編集上カットされていただけなのかもしれないが。)

そのかわり、演説の練習のために老俳優に教えを受ける場面は、ヒトラーの大袈裟な身振りを滑稽なものとし、党大会の演説のディフォルメされたパロディへと展開してゆく。ビデオは、実際の公演の様子を録画したものだったのだが、ドイツの観客も、かなり大笑いしていた。

このシークエンスだが、急に幕がおりてしまってステージ前にとりのこされ、うろたえたところから、急に幕があくと次の演説の場面が始まってしまい、あわてて演壇に立たされるといった状況になるという仕方で場面転換がなされていた。落ち着かない様子で教えられたとおりの型どおり身振りを繰り返しつつ、しかし、それが次第にヒステリックな演説になっていく、なんて場面のつなげかたは、ヒトラーの小心さを強調しつつ、そんなつまらない男がカリスマになってしまった皮肉を強調するような面もあり、なかなか巧みなものだった。

舞台装置もほとんどなく、空っぽな舞台の上で、赤い長方形の大きなフレームが中央にあり、そこに台が一つ。舞台中央には、地下に通じる金属製の格子状に透き間の空いた蓋があって、地下鉄が通過する効果音とともに、移動する列車から漏れるような光が舞台上に時折流れた。
役者の配置や演技も、この舞台設計に合わせてシンメトリカルな構成がなされたもの。

おそらく、セノグラフィー的には今やオーソドックスと言っても良いような、ある種モダンなもの。居合わせた知人に感想を聞くと、主演のマルティン・ヴトゥケはすごいけど、演出としてはそれほど感銘を受けなかった、といった声が多かった。

後になって思ったのは、ビデオで字幕を見ながら視覚的効果に意識を奪われている日本の観客には見えてこないような、言葉の響きやリズム、そして時間的な感覚に、ミュラーの演出上のアクセントがおかれていたのではないか、ということだ。

場面の変わり目に同じロック調の曲が繰り返し断片的に用いられたり(その断ち切るような音の使い方が、ある種の緊張を舞台に響かせるような)、地下鉄の音が場面の進行に同期するような、あるいは無関係のような、絶妙なタイミングで舞台の時間的進行に干渉する仕方であるとか・・・鉄道が引き起こす様々な連想だけでなく、通過するだけで関わりを持てない時間のあり方が、ある種の過酷な虚ろさ、あるいは、容赦ない不可抗的な進行、を感じさせる、というような。ある種、プロット的な秩序とは違う時間が、ときおり、舞台の時間を騒がせ、しかし、それが、時刻表的なフラットさにおいて舞台全体にたがをはめる、とでも言うか。

そうした複線的な時間的構成が、簡素なセノグラフィと共に、言葉と身振りのための空虚を用意する。演技も、基本的にはオーソドックスなものだ。しかし、劇作家としてのミュラーが、そこに、言葉を響かせる仕方、微妙な間や抑揚、リズムといったもの、その配置にこそ神経を配っていたのではないか、と想像した。ドイツ語を解しない僕には、その質を感じとることはできないわけだが。

ともかく、東京で同時に進行していたミュラーフェスティバルに連日足を運びながら、言葉の響きということを考えてもいたので、そのような点に注意が向けられていたのだった。

(初出「些末事研究」/再掲2010年3月10日)