AGUA GALA の『HM/エイドス』

ハイナーミュラーフェスティバル、うずめ劇場はフィリップジャメ上映会を優先して見なかったのだが、結局、変な意地でその他の公演は(はじめからぜんぜん期待してないものも含めて)全部みてしまいそうだ。そんな暇ないはずなんだけど・・・。

というわけで、AGUA GALAの『HM/エイドス』という作品を見てきた。
HMとくれば、ハイナー・ミュラーであり、ハムレット・マシーンである、ということなんだろうけど、エイドスってなんだろう。アリストテレス的形相?あんまりピンとこないですが。むしろ、弁証法の悪意ある改竄みたいなコンセプトがあって欲しいなあ、とか思う。

マンションの一室程度の、地下にある狭いスペース(このグループの拠点でもあったと思う)に案内されると、既に女優がなにかわめいている。しかし、その後展開するパフォーマンスでは、台詞が口にされることはない。

その代わり、下手側の壁(長方形のスペースを、横向きにステージと客席に割っていて、壁はコンクリートブロックむき出し)に、英単語が投影される。Solitudeだとか、Cancerだとか。それは、前半、何度か断続的に投影されていて、基本的にはブロック体(?)の白い文字だが、何文字か、あるいは、一文字だけ赤になっていたり、全部赤になっていたり、することもある。

ただ、複数のドイツ語らしい音声が、効果音のように流されもしたが、おそらく、聞き取られることは意図されていないだろう。その言語に堪能な人でも、あまり聞き取れないように、エコーがかけられ、重ねられていた。

パフォーマンスは、基本的に、苦痛にもだえていたりするような様子が、ある種洗練された仕方で様々に併置されてゆくようなもの。取っ手がついた蓋みたいな鉄板を床にたたきつけたり、金具で固定されたチェーンを引っ張ったり、女優(というか女性パフォーマー)が胸をはだけて見せたりする。それで、みんな黒い服きているのだ。

錬肉への悪口(ですね、あれは)を書いたときに「対面的」という言葉を使いましたが、それを繰り返せば、客席側に、舞台奥に向けて設置された医療用の椅子みたいなものがあって、そこに唯一の男性パフォーマーが座り、女性パフォーマーと対峙する場面もあったけれど、それも、希薄な関係で終わったようだった。

基本的に、痙攣的な身振りを、ある種洗練されたパフォーマンスに純化して見せているといった印象で、その調性は変わることなく持続するのだった。

そのような、調性(という音楽用語を比喩的に使っているわけだが)を感じさせるまでにパフォーマンスを精錬していることは評価に値するわけだが、しかし、結局舞台上に手際よくイメージを配置しているだけ、という印象が残るだけだった。それは、ノイズ的な音楽の扱いにしてもいえることだ。矛盾するけど、調性のあるノイズというか、コントロールされた音響である。配置や操作の平面に自足している(そういうのは、見え透いたかっこよさではないのか?)。

ラスト、それまでポツポツと投影されていた英単語たちが、センテンスのように一挙に投影される。それが、ミュラーのテキストを翻訳(ないし翻案)したものなのかどうかは、私には確認できなかったが、英単語は文法的には文章を構成しておらず、ある種、単語の羅列であった。なんで、英語なんだろうか。たしかに、ある種の美観はあったわけだが。

そういう美観へのこだわりというのは、デザインに興味のある人が、オリジナルフォント作りに熱中したりするのに似ている気がする。この欲望はどういうものなんだろうかなあ、といったことを考えながら見ていた。

結局のところ、ミュラーに触発されたイメージから構成されたんだろうな、という雰囲気は感じたけれども、すでに因習的になってしまっている舞台作品構成術のなかに端正に収まっているだけの作品に思えた。

(初出「些末事研究」/2010年3月12日再掲)