練肉工房『ハムレットマシーン』

青山ブックセンターでの素晴らしい吉増剛造写真展を見てから、その足で麻布ディプラッツに向い、練肉工房の『ハムレットマシーン』を見る。初演の時も見に行っていて、あまり面白いと思わなかったのだけど、初演の印象を思い出しつつ改めて見た感想は、基本的に変わらなかった。

芸術作品を誉めることは簡単で、おのおの好きなように誉めれば良いのだとおもうのだけど、否定的な感想を言う場合には、慎重にならなければならないとは思う。作品への不満を語ることが、視野の狭さや、無知、誤解を示すだけであることも多いわけだ。(今までの私の文章もその愚を露呈しているかもしれない。)舞台に向く足を遠のかせるような事をまくしたてることは、慎むべきであるとも言える。

そんなうしろめたさも感じつつ、練肉工房の『ハムレットマシーン』への不満を以下に書き連ねるわけだけど、ともかく、私の見方がどのようなものだったのかがある程度伝われば良いということにしよう。

真っ黒の舞台下手奥から能の小鼓が響き始めて公演は始まる。舞台中央に進み出た男が直立してドイツ語で、激しく固い口調でハムレットマシーン冒頭のハムレットの独白をまくしたてる。

そのあと、二人のパフォーマーが、背中を低くかがめつつ、広げた両足を探るように前にだして、両手を泳がせながら、舞台をゆっくりと動き回る。その姿勢で、ハムレットマシーンのテクストが声に出される。

まず、「ハ、ハ、ハアム。」なんて苦しげな、どもるような言葉が絞り出すように口にされ、なかなか「私はハムレットだった」という名高い台詞が出てこない。
これは、吃音にすることで、単なる理性的な言葉の流れではないような仕方で、肉体的な層から言葉を発しよう、という試みなのか、と思いきや、一度文章が流れ始めると、なんだかそのまま朗々と語られてしまうのだ。
その、張り上げられた言葉の流れを追っていると、はじめどもりと聞こえた音も、どもりのイメージを描いているだけにすぎない様に思える。結局、滑らかに吃音の振りをしているだけではないのか。見事に鍛えられた身体を誇示しようとしているだけではないのか。

オフィーリアの言葉は、能面をつけた能の演者によって能の朗詠法で語られたりもするのだが、そもそも散文として翻訳された文を、韻文の朗詠法で声に出されるものだから、なにか変なのだ(それが変だと思われないとしたら、言葉への姿勢がでたらめになってしまっているという事ではないか)。
そういう仕方で特殊な効果を狙ったという事なのかもしれないが、それよりも、結局訓練された発声法とその伝統によりかかっているだけで、テクストをどう舞台に立ち上げることができるのか、という問いがおざなりにされているのではないか、という疑念が勝ってしまう。

空間構成的にも、結局非常に単純な幾何学的配置があるだけであり、いかにも現代音楽的なバイオリンとフルートの演奏や鼓の音も、時間的連続を破るような緊張はなくのっぺりとした時間を持続させているだけだ。
舞台上には、対面的なものは一切なく、それ故に劇的緊張を欠いているのだが、かといって無関係があるわけでもない。結局、ひとつのプログラムが順序よく進行し、同じように律儀に正面へと差し向けられた演技が連ねられるだけであって、その秩序の中でそれぞれの演技は程良い位置を得てしまっている。
舞台空間は、ある種押し付けがましいものに単調に埋め尽くされているのみで、予期できない突発事や、その都度失われてしまう儚いものもなく、永遠さを思わせるような張りつめた気配もない。

自己の身体を掘り下げることにより、死者達の声を召喚することが目指された、といった主旨のことが公演パンフレットには書かれていたのだが・・・ある種の力を充満させて、ぎらついた言葉を滔々と吐き続ける勝ち誇った身体が舞台をくまなく領すことができるとでも言うかのようなパフォーマンスにしか見えなかった。

一旦流れ始めれば単調な語りだが、解釈や想像を広げていたようにも見えない。発語することが、意味を失った声そのものという所まで追いつめられるというわけでもない。言葉の単なる意味了解と、発語の力を誇示される事。私の耳は、その二つを追うだけに流されて終わってしまった。
朗詠法には、ある種の審美的統一がある。その審美的統一だが、ある種の力強さを基準とした硬直したものであって、言葉の繊細な美しさを感じさせるものではなく、ありきたりな審美観を破壊するような挑発力を発揮させる仕掛けがあるわけでもない。なんだか力強いだけの言葉は、ほとんど喚起力を持たず、そのために言葉の流れは抽象的に留まるように思われた。
(たとえば「地点」による『三人姉妹』の公演では、「美しい日本語」などと言う軟弱な審美観を粉砕するに足る力と仕掛けとが兼ね備えられていたので、私は自分の言葉への審美感が逆撫でされる不愉快さを感じながらも、既存の審美性を越えた所に打ち立てられる美しさを感じずにはいられなかった。)

ハムレットマシーン』という作品は、むしろ、身体の傷つき易さ、弱さから立ち上げられるべき作品ではないのか、という思いも浮かぶ。『ハムレットマシーン』とは、少なくとも、演劇の根拠がどこかに据えられてしまっては、それが失敗の理由となるような、そんな作品だったのではないだろうか。
練肉工房による『ハムレットマシーン』は、結局、単に訓練された身体を演劇の根拠に据えてしまっているだけの事ではないのか、と思える。

修練を重ねた身体が、自己の内に、死者達の代弁者たりえるような資格を見出せる、と考える事自体が、なにか大きな思い違いではないのか、とさえ言いたくなる。たとえば主題において死者の霊の召喚を軸とする能の舞台構造は、身体訓練に根拠づけられるだけで成立するものでは無かったのではないか。

(初出「些末事研究」/2010年3月12日再掲)