手塚夏子+黒沢美香=『天才少女スミレ』

手塚夏子と黒沢美香が競演する、というのは、黒沢美香(と、出口→氏)が中心となった「偶然の果実」の企画に手塚夏子さんが参加していたこともあったから、いかにも当然の成り行きという印象ではあったけど、「いよいよか」なんて風に期待を募らせていたのは、DMさんだけではなかっただろう。

公演の様子を言葉で描写してもあまり意味は無いのでやめておくのだけれど、間歇的に流される牧歌的にしてノスタルジックな音楽と、音楽が終わってしばらく続く無音の状態、音楽と無音とが、緊張の持続の中では等価なものになってゆく。このあたり、黒沢美香一流の演出なんだろう。

黒沢美香という人は、やはり、身体の周囲に動きの記憶の膨大なストックをもっていて、そして様々な軌道をいくらでもなぞることができる人なのだろうな、という印象を強める。
黒沢美香の公演では、普通の意味で「踊る」ということをあまりしない時と、普通の意味で「踊る」ということをたくさんする時があって、「踊る」らない時にも独特の緊張を醸してくれたりして楽しめたりはするけれど、でも「踊る」ってもらえると喜んでしまう。本人の中では、そのあたりどうなっているのか。
黒沢美香が舞台に上がるときには、ある種不機嫌さがにじむような無表情、であることが多い。このダンサー独特の、動きの可能性への集中が見せる表情なのだろうか。ともかくそこにはダンスに向けた思考が働いているように思う。今回、手塚さんとの絡みで、ちょっと笑ったりしていたのは珍しい光景のように思った。(自分が見ていないところで、結構笑っているのかもしれないけど)

それに対して手塚夏子という人は、やはり、身体の内側に起きる微細動を積分積分して身体レベルの動きに表出しているひとなのだ。似ているようでまったく対極の二人の対決だなあと思って見ている。ソロの場面でも、お互いを感じあっている緊張が途切れないかのような。
手塚さんは踊っている間に、微笑がこみ上げてくるような時がある。でも、それは楽しいから笑っているというよりも、細胞レベルから立ち現れる表情筋の情動という感じだ。だから、その表情は、思考を媒介したものではなく、ある種の放心にも似たものなのだ。思考は情動のあわ立ちをトレースするだけの空白になっている、とでも言うか。

ところで、桜井圭介氏の黒沢美香論は、黒沢美香を語る上で必見ですかね。桜井氏は、公演中、くすくす笑いを漏らしている事が多かった。たまたま隣の席だったのでよく聞こえてしまったのだった。

木村覚氏の手塚夏子論にも注意を促しておこう。

(初出「些末事研究」/2010年3月12日再掲)