クワトロ・ガトス公演 『in/out-there』 についての一記述

クワトロ・ガトスの公演、in/out-thereを見に行く。10年近く前には、都内でもっと頻繁にクワトロ・ガトスの公演を見る機会があったが、最近は都内で見られる機会も少ないので、じつに久しぶりに観た。

今回の公演は、中央大学にある中規模のホールで、横長の舞台にだいたい縦4に横10(うろ覚え)の行列を成すようにワイヤーが天井から吊り下げられていて、下端のフックにワイシャツ(人間の胴体の形に膨らませて固定されている)が順番にぶら下げられてゆくプロセスが前半部。前半部では、舞台直前中央にすえられたモニターで、学生が撮影した荒い編集のビデオが流されてゆく(日本国憲法を第9条から読み上げてゆく様子を肩越しに撮影したりとか、「パレスチナ」という文字が読める書物の1ページが映っていたかとおもうと、それは『ビン・ラディンインタビュー』という書籍で、裏表紙が映されるとBookOffの100円の値札がついている、などなどの画像が漫然と映されて行く)。

ワイシャツを吊り下げてゆく作業は、作業として黙々と遂行されてゆき、吊り下げる順番は、単に恣意的でもないが、端から埋めていくというのでもない、何らかの指示がうかがえるようなもの。

いくつかのワイシャツには、ラジカセががら空きの胴の部分に仕込まれたり、無線式のカメラが仕込まれたりする。そこから捉えられた映像は、舞台上から観客席に向かう眺望を映しだすものだが、客席は暗くて見えず、前を通るパフォーマーの様子などが写ったりする。

中間部分では、複数のラジカセから、それぞれ別の人物によって吹き込まれた音声が流されたり(公演概要で説明された、目取真俊「希望」であると思われる)。、パフォーマーたち(男三人と女三人、それぞれ、黒のズボンにワイシャツといういでたち)が、突然後ろに倒れてゴロゴロとステージを横方向に転がったりする。その転がり方は、しかし、一定のリズムを律儀に保ったものであり、いったん停止して、逆方向にまた転がるときや、停止して、再び立ち上がるときの身振りには、若干の振り付けのようなものが施されていて、全員が同じ身振りをなぞっている。その身振りの質は、ある種そっけなく、作業の遂行といった風になされるものだが、ある種のポーズを取っているようにも見える。

それに続くパートでは、照明が落とされ、スライドを手にしたパフォーマーが様々な文字を壁に投影する。白いブロックで組まれた壁が、舞台奥の一部と、舞台の両袖の一部に立てられていて、舞台を囲んでいる。舞台奥の壁に投影されたテクスト(目取真俊「希望」であると思われる)の文字を、女性パフォーマーが、一文字一文字声に出しながら、マジックか何かで壁に写してゆくというパフォーマンスもなされる。

続く最後のパートでは、パフォーマーたちは無線のマイク(小型のヘッドセットと、トランシーバー本体の部分に分かれていて、受信もしていたと思われる)で石原吉郎ペシミストの勇気について」と思われる(シベリアでの収容所体験を語るもの)文章を、平坦な調子で朗読しながら、吊り下げられた人型を思わせるワイシャツを外に運び出してゆく。

下手側の壁のブラインドが電動で上がり、窓が開けられたので、どうしたのかと思ったら、パフォーマーたちは建物の外に空洞型ワイシャツを一つ一つ並べてゆくという作業を遂行しながらテクストを発声しているのである。
それが、時に誰も居なくなり、時に、ワイシャツをはずす作業が遂行され、時に胴体を物体のようにして回転し、後ろを向くといったような単純な動作からなされる共通の身振りを繰り返すというパフォーマンスが遂行される舞台に、無線で伝えられてスピーカーから流される。無線特有のノイズもまざる。

建物の外の様子を窓から見ることができるのだが、無線のカメラから送られる映像が舞台奥の壁に映し出されもする。ワイシャツがすべて芝生の斜面になっている野外に並べられると、列の先にある、ダンボール箱状のもので三方を仕切られた空間で、無機的な身振りで体をたたいたりしながら、ある種の振りを繰り返すというパフォーマンスが展開され、そのライブ映像が舞台奥に投影されてゆく。

およそ、そのような公演だった。

朗読される言葉が、スピーカーから流され、重なり合うことで、誰のものでもない言葉になってゆく、その処理には面白さを感じた。小手先の技術で言葉を舞台に上げたつもりになる欺瞞に比べれば、はるかに、受け入れやすいものだ。

しかし、単純な印象を書き記しておけば、政治的な「素材」の処理にせよ、演技技術を排除する仕方にせよ、結果としての印象に、ある種いかにも若者じみた感じを覚えた。結局、社会的成熟(まあ、芸術家なら、市場的に成功するための条件みたいなもの)をあえて拒否することで、あらかじめ敗北する側に立つ身振りをしているということなのだろうか。

それでも、審美的な処理というのが中途半端に残されているような気もして、そのへんどう考えているのかという疑いが残った。(いや、いちいちの「素材」の処理には、いろいろな理屈がつけられているのかもしれないが)
そういうどっちつかずの感覚も、青二才感をかもし出す原因だろうか。

およそ、そんなことを考えながら鑑賞していた。

(初出「些末事研究」/2010年3月12日再掲)