チェルフィッチュ『マリファナの害について』

一人芝居ということで、タイトルはチェーホフの『煙草の害について』のもじり。

おもむろに舞台に登場した女の子が、待ち合わせに遅れてきた友人の女の子の話を始める。待ちながら見ていた、路上でパンフレットを配っている男の様子を語ったり、待ちぼうけをくわされる腹立たしさみたいなものも、20歳過ぎたから、それなりに相手にぶつけても仕方ないってことがわかってきたし、みたいなことを漫然と話している。

この、漫然として、冗長で、「えーと」とか、「ていうか」とか、意味のない同じ言葉が繰り返し口に上ったりするようなありきたりの言葉のあり方に、だらしない身体の仕草みたいなもの、話しているときに無意識にノイズのように紛れ込む意味のない仕草みたいなものを織り込むという岡田演出のスタイルは、ますます磨きがかかっている。

今回は一人芝居ということで、誰とはなく話しているというか、話を聞く相手が舞台上から消去されてしまって、漫然と語りかける姿勢だけが切り取られているかのような舞台になっている。

今回は出演者一人ということで、一つ新しい仕掛けがあった。漫然と話している、その話のながれで、友達の話した事を再話していると、いつのまにか、話し手が、元の話の中で話されていた友達の女の子に移り変わってしまう。その、演技と、演技の中の話の引用とが、シームレスにつながってしまうような演出がなかなか巧みで、面白かった。

話し手が、いつのまにか、まちぼうけしていた女の子から、待ち合わせに遅れた女の子に移ると、今度は、自分がはじめの話し手であった女の子が再話として語っていた話をした場面を回想として語りつつ、はじめの語り手の再話の内容となる話を、語った思い出として語って行く。そこでは、相手の女の子の聞いている時の「ちょっと話に退屈してたり、話の内容に引いてたりした」なんて反応なんかも語られたりしてゆく。

見ている時には、このあたり、語り手が変わって面白いなあ、という感想だけだったのだけど、こうして書くと、舞台で起きていたことは、けっこう複雑だ。考えてみると、語り手の交代の中に、人物の違いによって同じ出来事が別のパースペクティブから見られている事が織り込まれていて、その時系列が複雑に入り組む様子は、社会的な出来事というものが、様々な視点の交差や、同じ出来事が様々な語り手によって語り直されることで成り立っているということ、その構造を結晶化しているかのようでもある。

作品の仕掛けが、作品の構成の中に溶け込んでしまっているからこそ、見ている時にはその複雑さが意識されない。なかなか見事な小品というべきだ。

ノローグの中には、情景描写も、人物描写も、会話の再話も織り込まれているが、その中には、内省的な言葉も織りまぜられている。人生の小さな難問に対応するための、けなげな方策みたいなものが、語られてゆく。その、ありふれた確かさ・・・。

最後は、遅れてきた女の子がパンフレットを配っている男(はじめの、待ちぼうけしていた語り手が観察していた男)と、待ち合わせに遅れているその時に話していた様子を語る所から、パンフレットを配っている男のモノローグへと移っていき、その話の中に、女の子二人が行う再話の中に登場する、遅れてきた女の子の、マリファナやってるような「やばい彼氏」らしい「浅野忠信風の髭の男」が登場して、待ち合わせの場所であるビルに入っていく姿が語られて終わる。

こういう内容的な円環の閉じ方というのは、作品にむりやり完結感を持たせているようで、いずれにせよ唐突に終わるこの作品の完成されなさを埋め合わせようとして逆にきわだたせているようにも思えたのだが、他劇団とも一緒に公開されるショーケース的な上演の条件を考えれば、それほど大きな欠点ではないだろう。

むしろ、語り合うことの再現のなさ、限りのなさを示す方向へ、あるいは、語り手の交代の中に、言葉の主体が動揺して、誰が語り手なのか、その境界もわからなくなる方向へと作品が開かれていって欲しい。語る身振りが、語りから語りへとうつろってゆく言葉そのものの厚みに折重なって行くような地点にまで、この作品は連続しているようにも思う。

はじめの、語り手から語り手への移行が気付かれずに成され得た理由には、二人の語る身振りに大きな描き分けが成されていなかったという事もある。もし、移行の面白さをトリッキーにきわだたせるなら、全く違うタイプの語り手同士の間で移行が起きた方が面白いはずだ。でも、この作品での岡田さんの関心はそこにはなかったのだろう。

複数の語り手同士の間の同質性の方が際だっていたわけだが、その事が示していたのは、むしろ、作品が描こうとしたものは、単に前景をなすそれぞれの語り手や、語り手が語る事柄だけではなく、語りの場を支配する身振りや口調のモードでもあった、ということではないか。

この作品は、ある意味で、地点の『三人姉妹』とも通じ合う作業をしているような気もした。それは、つまり、演技が拾い上げる様々な仕草や身振りが、映像とは別の仕方で、懐古的な眼差しの元に切り取られ、オブジェとして据えられる、その作業が演劇として成り立っている、ということだ。

アラン・レネの映画『ミュリエル』みたいな作品にも通じるような魅力をもっている一方、保坂和志の短編小説のような味わいもあった。

(初出「些末事研究」/2010年3月11日再掲)